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コザ高校(9)アイデンティティー、劣等感…人生の転換期になった青春 宮里好一さん、安村光滋さん<セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
宮里好一氏

 1972年の施政権返還を前にした沖縄の激動期、各地の高校も揺れた。医療法人タピックの理事長でコザ高校27期の宮里好一(67)は激動のただ中、高校生活を送った。

 宮里は「混乱期にいろんな不安があった。外の変化があまりに激しく、皆がもがいてもがいて、自分の道を選んだ。僕もその一人だった」と在学時を振り返る。

 54年、当時の美里村比屋根で生まれた。きょうだいが多く、暮らしは苦しかった。「生活のため、小学校2年の頃から高校3年までずっと新聞配達をしていた。バイト代は1カ月で2、3ドルはあったかな」

 69年、コザ高に入学した。校内は「政治の季節」に包まれていた。

 「復帰前の、密度の濃い時代だった。佐藤・ニクソン会談があり、国政参加選挙があった。コザ騒動を伝えるラジオ放送から緊迫した空気を感じた。学校でも2週間に1度、討論集会が開かれた」

 当時の自身を「孤独で、孤立するタイプだった」と語る。青年期をどう生きるべきか、沖縄とは何なのかという難題と向き合い、思い悩んだ。アイデンティティーが揺らいでいた。復帰への疑念から教師に議論を挑むこともあった。

 「若い先生に『何で日本に復帰するのか』と聞いた。日本に帰ることは本当に正しいのか分からなかった。先生は『困った質問だ。復帰は否定しないが、突き詰めて考えると君の言うことも分かる』と答えてくれた。今考えれば、正直な先生だった」

 文学を志したこともある。大江健三郎の「沖縄ノート」や岡本太郎の「沖縄文化論」に衝撃を受けた。そんな頃、友人の一人が心を病んだことがきっかけで精神医学に興味を持ちフロイトやユングを読み始めた。卒業後、宮里は岡山大学医学部に進んだ。

 現在、「健康と生きがいづくり」を目指し、観光やスポーツと連携した医療活動を展開する宮里。「沖縄の端境期に10代を送り、コザ高校を舞台に生きることができた。そのことをありがたく思っている」と語る。昨年からコザ高校の同窓会長を務めている。

全国高校ラグビー大会に出場するコザ高チームの壮行会=1984年12月26日、那覇空港
安村光滋氏

 84年12月28日、花園ラグビー場。第64回全国高校ラグビー大会で、コザ高校が県勢初勝利を飾った。この試合で2度のトライを挙げたのが40期の安村光滋(54)である。現在、沖縄県ラグビーフットボール協会の理事長を務めている。

 66年、コザ市越来で生まれた。幼い頃は家を出ると遅くまで帰らず、親から「鉄砲玉」と呼ばれた。小、中学生の頃は野球少年だったが、1人で悩みを抱えていた。

 「体が小さくて劣等感が強かった。何をやっても不完全燃焼。野球しかり、友人関係しかり。中学の3年間も苦しかった。活発だけど内省的で、自分の人生はこのままでいいのか悩んでいた」

 コザ高入学を機に新しい環境に飛び込もうと思った。「ラグビーをやったのも劣等感を拭うためだった。中学校の野球部のメンバーには『体が小さいから無理だよ、吹っ飛ばされるよ』と言われ、逆に心に火が付いた」と振り返る。

 実際にタックルを受けて吹っ飛ばされたが、今までにない充実感を味わった。安座間良勝監督の情熱的な指導にも導かれ、ラグビーのとりこになった。練習は厳しかったが、チームは家族のような雰囲気だった。

 安村は自分に課題を課した。スピードを磨くため自宅前で毎朝、ダッシュを繰り返した。午後も一番最後までグラウンドに残って練習に励んだ。その成果が84年の勝利へとつながった。「花園での一勝はものすごい達成感があった」

 筑波大学を経て、安村は高校の教師となる。母校のコザ高校や石川高校でラグビーを指導し、2006年に17年間の教師生活を終えた。別の形でラグビーに貢献したいと考えたからだ。「喜びよりも悔し涙を流させることが多く、生徒に申し訳ないという思いが年々強くなった」と振り返る。

 劣等感を克服するため、毎朝ダッシュした日々を忘れない。「自分を信じ、こつこつやり続けることが大事だ。朝、ダッシュすることは大したことではないけれど、誰もができることをやり続けることが大切だ」と安村は語る。
(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)