86歳で県議選出馬、琉大名誉教授・垣花豊順さんの「32軍壕公開」への思い 藤井誠二の沖縄ひと物語(24)


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日本軍第32軍司令部壕第5抗道の入り口に立つ垣花豊順さん=2020年12月22日、那覇市首里(ジャン松元撮影)

 声をはっきりと聞いたわけではない。だが、ときどき公園周辺を約1万歩、歩いて野生の草花、大小の木を見るウオーキングをしていると、垣花豊順さんは、確かに耳では聞こえない言葉が風に漂ってささやかれているような感じがした。

 延べ約千メートルに及ぶ第32軍司令部壕は、首里城の地下に張り巡らされていて、米軍と壮絶な攻防の戦場となった。牛島司令官らは本土上陸に備え、沖縄地上戦をできるだけ長期化させるために、負傷して自力で動けなくなった将兵らに自決用の薬物を渡すなどして、司令部壕の出入り口を爆破して南部の摩文仁司令部(洞窟)へと退去したのだ。

 「かねてから、政府や為政者に対して、第32軍司令部壕の保存・公開をすべきだとの雑文を公にしてきたが、進展はなかった。首里城公園周辺を散歩していると、“おまえは、雑文を書いたりするが、口ばかりで何もしないのか”と、第32軍壕内に閉じ込められたまま死んだ戦争犠牲者の御霊(みたま)から責められているような感じがしたんです」

3日前に決断

 2020年6月に投票が行われた沖縄県議会選挙の立候補締め切りが3日後に迫っていた。垣花さんは、第32軍司令部の保存・公開を唯一の公約にして、妻や友人に一言の相談もせず立候補する。妻は86歳(当時)になる夫の立候補を新聞で知り、腰を抜かした。

 「立候補せねばならんと決めたのは3日前ですよ。私が手を挙げないと、暗黒地獄として首里城地下に閉ざされた第32軍司令部壕は、歴史に埋もれて国政、県政でも忘れられると思ったからです。第32軍壕を閉ざしたままでは、歴史の真実を教えることはできないし、御霊の供養をすることもできない。政府が風格のある首里城正殿を復元しても、戦争犠牲者の遺族は心からお祝いする気にならないし、地域住民は地震の時に第32軍地下壕が陥没する危険にさらされる生活をすることになります。日米開戦時の日本海軍の真珠湾奇襲攻撃は『リメンバー・パールハーバー』として、米政府はアリゾナ戦艦の記念館を真珠湾海上に設立しています」

 垣花さんは立候補届書類を受け取るために一人で選挙管理委員会に赴いた。対応した職員は「ほんとに立候補するんですか?」と何度も尋ねてきた。選挙宣伝車の使用は事前の許可を要するが、許可を得る時間がないので、自家用車で路地やアパート前に赴いて、ハンドマイクで第32軍司令部壕の保存・公開を訴えた。

 現在、玉城デニー知事は「第32軍司令部保存・公開検討委員会」を設置し、2021年度県予算で3102万円の調査費を計上している。垣花さんが一人で手を挙げたことは、確実に広がり始めた。32軍壕は過去に何度か調査されているが、棚上げになっていた。

12歳で終戦

模型を前に日本軍第32軍司令部壕保存構想などを語る垣花豊順さん(ジャン松元撮影)

 宮古島市城辺の字保良の農家で生まれた。父は近衛兵(天皇皇居警備兵)の兵役を終えて、乳幼児の時に若くして盲腸の手術遅れで死亡した。父の顔は覚えていない。母と3歳上の姉との親子三人暮らしで畑を耕し、寝る時は母を中にして川の字型にして寝た。母は苦労したが、畑で遊んで育ったので、戦争で日本兵が集落に駐屯するまでは、苦労した記憶はない。戦争が終わった時は、12歳だった。

 「保良集落に駐屯する日本兵が、低空飛行して爆弾を投下する米軍機に向かって小銃を撃つ姿を見て、子どもながらに敗戦を予想していたよ」

 宮古高校から琉球大学へ。卒業後は琉球政府上訴検察庁の検察事務官に就職した。米軍は沖縄を占領した当初は、戦時国際法に基づいて、布告、布令、指令の形式で法令を発布して沖縄を統治した。占領当時の日本法は、それらに反しない範囲内で効力を有した。社会秩序が回復すると、琉球臨時中央政府及び群島政府が制定した立法及び条例に基づいて沖縄を統治した。

 占領された当初は日本の判事、検事、弁護士の資格を持つ人はいなかったので、警察官、裁判所書記官、検察事務官、戦後沖縄で実施された司法試験合格者が裁判をした。垣花さんは検察事務官に就職し、3年後に検察庁の内部試験を受けて検察官になり、7年間務めた。検事在任中に、ガリオア資金で米国ミシガン大学ロースクール大学院に留学し、主に日米刑事訴訟法を勉強して沖縄の本土復帰前年に、検察官に復職する。当時は、検察官から大学へ転職する例はまれだったが、ミシガン大学で修士号を得ていたこともあって、母校の先輩教授からの誘いで琉球大学へ転職した。

 「司法試験を受けたことはないし、本土の大学院で研究したこともないので、学生に対して申し訳ないと思い、東京大学へ研修留学して高名な刑事法の先生のゼミに参加して勉強した。その過程で、精神障害犯罪者の処遇に関する研究は、医療、行政、裁判にまたがる重要な研究課題であることを学び、同問題を研究するようになったんです」

 フルブライト奨学金で米国スタンフォード大学ロースクール大学院に留学し、「精神障害犯罪者処遇に関する総合研究」の論文で法学博士(Doctor of the science of Law)を授与された。

 「スタンフォード大学は創立者の一人息子が16歳で病死し、悲しんでいるときに、夢に現れた息子から励まされ、息子の名に因(ちな)んで『スタンフォード ジュニアー大学』と命名されています。大学の設立理念は『天の法は地上で実践されるべきである』です。大学創設者の伝記を読むと、この世に生きる人は、あの世にいる人と深いつながりがあることが分かる。第32軍地下壕は、日清・日露戦争を経てハワイ真珠湾へ奇襲攻撃をしたことに起因する負の遺産であることを、歴史は教えているんです」

司令部壕の現場

 垣花さんの案内でやぶ林の中にある第五坑口の現場に赴くことにした。垣花さんは毒蛇ハブとの遭遇を用心して、持参の傘で自生しているチガヤと雑木を軽くたたきながら下り坂の獣道を数百メートル進んだ。

 急な坂道には鉄パイプの手すりがあるが、足元はでこぼこで、手すりには蔦(つた)が絡まっているから、高齢者は下るのも、上がるのも容易ではない。

 垣花さんは75歳でNAHAマラソンを制限時間内に完走した健脚の持ち主だが、慎重に足元を確かめながら坑口へ案内した。第五坑口の高さ約10メートルの丘の底腹を掘り抜いて築いた坑道は崩落の恐れがあるので鉄製の柵でふさがれ、中は暗闇で見ることはできない。

 丘の上にはマンションが建てられているから、第一坑道から第五坑道に至る約400メートルの地下壕の崩落防止措置は必須であることが素人目にも分かる。ちなみに首里城の公園全体の案内図には32軍司令部壕の存在は明記がない。

 「そうそう、私は夢はよく見る。しかし、第32軍について夢を見たことはない。真っ暗な闇の左遠方に光があって、右遠方に深い谷間がある風景を見たことはあるが、それが第32軍壕の内部であるか否かは分からないけどね」

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

かきのはな・ほうじゅん

 1933年宮古島生まれ。琉球大学名誉教授(専門は刑事訴訟法)。弁護士。沖縄刑務所篤志面接員。2010年から戦跡を歩いて巡り、沖縄地上戦の追体験を通して「命(ぬち)どぅ宝」を発信するピースウオーキング運動を続けている。第32軍司令部壕の保存・公開を求める会(会長・瀬名波榮喜元名桜大学学長)は那覇市議会、沖縄県議会に同壕の保存・公開を求める陳情書を提出、那覇市議会は全会一致で可決した。
 

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。