prime

知念高校(1)初の行政主席・屋良朝苗氏の指導 生徒に希望 新垣雄久さん、瑞慶覧長方さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
創立60年を記念し、学校跡地に建てられた記念碑=南城市玉城親慶原

 知念高校は1945年11月16日、現在の南城市知念字志喜屋で創立される。その後、同市玉城百名や玉城親慶原に移る。与那原町与那原の現在地に移ったのは52年2月のことである。

 親慶原一帯は一時、米軍政府や沖縄民政府が置かれ、戦後沖縄の行政の中心地となった。知念高校にもさまざまな地域から生徒が集まり、県内各界で活躍する人材を輩出した。

 知念高校は米統治下で日本復帰運動を牽引(けんいん)し、初の行政主席・県知事となった屋良朝苗が47年4月から50年11月まで校長を務めたことでも知られる。

 屋良の情熱的な指導と誠実な学校運営は卒業生の間で語り継がれてきた。知念高校4期で、元沖縄県副知事の新垣雄久(たけひさ)(91)は屋良の薫陶を受けた一人。第2代と4代の知念高校同窓会長を務めた。

 「大学がなく、希望もなかった時代、私たちは屋良先生の情熱的な指導に支えられた」と新垣は回想する。

玉城村親慶原にあった知念高校の校舎(創立50周年記念誌より)
新垣雄久氏

 新垣雄久(たけひさ)(91)は1930年、本部町に生まれた。今帰仁村の兼次尋常小学校や与那原国民学校で学び、43年には県立二中に入学。翌年9月、愛知県に疎開した。沖縄戦で両親を失った。

 敗戦後の46年夏、沖縄に引き揚げ、玉城村親慶原にあった知念高校の2年に編入した。そこで校長の屋良朝苗に出会う。屋良は生徒に熱っぽく復帰を説いた。

 「朝礼の時など『日本人たれ。今は占領下にあるが必ず復帰はある。沖縄を担うのは君たちだ。日本人として誇りを持て』と指導してくれた」

 学校運営に精魂を傾けた屋良の姿を新垣は心に刻む。

 「知念高校は水事情が悪く、校外の井戸から水を運ばなければならなかった。ところが学校の貯水タンクはいつも水がいっぱい。不思議に思って夜に待ち構えていると、屋良先生が家族と水をくんでいた」

 新垣はバレーボールや弁論に打ち込んだ。自治会活動にも参加し、他の高校と連携して大学設立促進運動と募金活動に携わった。

 卒業後、小学校の補助教員を経て法政大学に進み、帰郷後に琉球政府に入る。屋良の主席公選出馬には反対だった。「僕は『政治家にはなってほしくない。先生は教師です。政治は向きません』と伝えたら、先生は『分かった』と答えた」

 屋良は当選。新垣は行政主席・知事の下で東京事務所渉外官、総務部地方課長を務めた。

瑞慶覧長方氏

 元県議で社大党委員長を務めた5期の瑞慶覧長方(88)も屋良から学んだ。主席公選で屋良の陣営を手伝った。「沖縄で民主政治をやれるのは屋良先生しかいないと考え、昼も夜も応援した」

 32年、大里村で生まれた。徹底した皇民化教育を受けた瑞慶覧は沖縄戦で摩文仁や米須をさまよう。住民に投降を呼び掛ける住民を日本兵が惨殺するのを目撃した。敗戦後、玉城村百名に身を寄せていた瑞慶覧は、百名初等学校の教師に知念高校を受験するよう促された。

 「学校に入って何になるかと思っていた。先生は『人生は学問が第一。日本の教育は間違っていた。アメリカの民主教育を受けなさい』と諭してくれた」

 46年に入学した瑞慶覧は「屋良先生の教育を受け、皇民化教育によるマインドコントロールから覚めた。身を持って生徒を指導してくれた」と語る。

 化学を教えた屋良は米軍の廃品から教材を集め、実験した。49年のグロリア台風で校舎が壊滅状態になった時、屋良は先頭に立って復旧に奔走した。「屋良先生が校舎を設計した。のこぎりやかんなの刃を研ぐのも屋良先生」

 卒業後、琉球大学に進んだ瑞慶覧は教師として知念高校の教壇に立った。「学校で教えることを通して学ぶことができた。それは屋良先生の姿勢でもあった」

 屋良の教えを胸に教師となった瑞慶覧は72年6月の県議選に当選し、与党県議として屋良県政を支えた。  

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)