登川誠仁さんを悼む 時代と闘い芸道で制す 小浜司(2013年3月22日)


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宮良長包音楽賞の贈呈式・祝賀会で演奏する登川誠仁さん(左)と仲宗根創さん=2011年12月19日、那覇市泉崎の琉球新報ホール

 強烈な個性で戦後の琉球民謡界をリードしてきた登川誠仁。民謡、古典音楽、舞踊の地謡という幅広いレパートリーは言うにおよばず、カチャーシー曲における早弾き技法は周りにいる誰をも圧倒した。沖縄音楽のエンターテインメントを高めた彼のライブパフォーマンスは、誰にも真似(まね)できない独特のものであった。その三線人生も時代との格闘を制してきた証であった。

 登川は1932年兵庫県尼崎にて生まれる。5歳の頃、母の故郷である美里村東恩納(現うるま市)に移り住み、祖母に預けられ育てられる。家の近くに青年男女の集まる“毛小(モーグワヮー)”(広場)があり、そこから漏れ聞こえる三線の音色に惹かれて自分で三線を作るようになる。といっても、屋敷にあるクバの骨を棹にして、竹の胴(チーガ)にセメント紙を包むというものであった。学校嫌いな彼が通ったのは山学校。大自然の中で三線励行の毎日。11歳にしてカチャーシーを弾きこなし、大人たちの歌をすぐにまねて歌うことができて、声も最初から”年寄声”だったとは本人の弁。

 戦後、基地でハウスボーイとして働く傍ら、米軍ヤミ物資の横流し、いわゆる「戦果あぎやー」に手を染める。荒稼ぎして2階屋(材料もヤミ物資)を建てたものの、その家を賭けた博打(ばくち)に負けて財産全て失ってしまう。そのときセイ小、弱冠16歳。帰る家もなく、どこへ行こうか考えていると、板良敷朝賢先生から芝居に誘われたのを思い出し、知人に紹介してもらって弟子となった。島袋光裕を団長とする松劇団の地謡・板良敷の下で、師の身の回りの世話をしながら、読み書きを学び、本格的に芸の修行に励むこととなる。

 2年余り板良敷師の下で修行するも、師匠との死別後は芝居を離れて軍作業に従事したり、芝居に戻ったりしつつ芸道を極めていく。1951年頃、組踊の指導者・泉川寛師より三板を、星潤師(組踊の大家)から太鼓を習得(自由打法)している。民謡コンテストのカチャーシー部門などで頭角を現し、マルタカレコードから次々とレコードを発表し、セイ小の名は民謡ファンの間にも広まっていった。50年代後半には喜納昌永、津波恒徳とグループを組んで民謡ショーの巡業で人気を博した。

 1961年、ハワイの野村流古典音楽研究発表会に招待され、民謡活動で1年間を過ごしている。67年に初のリサイタルを開催。75年には琉球フェスティバルへ参加し、LP「美ら弾き 登川誠仁」を全国発売する。1957年の琉球民謡協会設立に参加し、84年には会長に就任。98年名誉会長と歴任している。

 1999年、映画「ナビィの恋」で準主役を演じた登川の人気はたちまち全国区となり、沖縄ブームの広告塔となったことは記憶に新しい。彼の奏でる三線は言うにおよばず、しぐさ、語り、彼の全てが“芸”であった。それがもう観られないと思うと残念である。合掌!
(島唄解説人)

<登川誠仁年譜>
1932年11月 兵庫県尼崎で生まれる
5歳 美里村東恩納(現うるま市)に転居
57年 トリオとして人気を博した喜納昌永、津波恒徳とともに琉球民謡協会を設立
70年 声楽譜付の工工四『民謡端節舞踊曲集工工四』を発表
84年 琉球民謡協会会長に就任。6期務める
89年 沖縄県指定無形文化財保持者(琉球歌劇)認定
99年 準主役で出演した映画「ナビィの恋」が全国的にヒット
2011年 第9回宮良長包賞受賞
12年 県功労者表彰