象徴のアーケードが消えた商店街 店主たちは今 <動き出す銀天街>1


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
銀天街で開催された感謝デーは多くの客でにぎわった=1979年4月28日(高島義彦氏提供)

written by 下地美夏子

 沖縄市照屋の商店街「銀天街」のアーケード撤去作業が始まった昨年9月8日、崎浜清子さん(86)は、その様子をじっと見詰めた。結婚をきっかけに照屋に移り住み、約50年にわたって「さきはま化粧品店」を営む。「一つの時代が終わったんだね」と、涙を浮かべた。盛況だった頃の商店街を思い出しながら、老朽化したアーケードがきしむ音に胸を痛めた。

 交通の要所だったコザ十字路に隣接する銀天街には、本島中部だけでなく、北部や南部からも買い物客が足を運んだ。最盛期の70~90年代前半ごろまで、食料品店や衣料品店、雑貨店などが軒を連ね、多くの人でにぎわった。アーケードの撤去は、時代の一区切りを感じさせたが、新たな息吹が芽生えつつある。

 銀天街で最高齢の玉城トシ子さん(97)は約70年前、一銭もない状態で本部町から身を寄せた。近隣住民からお金を借りながら、野菜や日用品を扱う雑貨店「玉城商店」を切り盛りした。商店街には玉城さんの店のほか、総菜や精肉、鮮魚を扱う店も並び、夕刻時は買い物客でごった返した。「子どもが大学に行くまでゆっくり寝たことはない。隣人の顔を見る暇もなかったぐらいだ」と、当時の盛況ぶりを語った。

 照屋では、戦後初期から人口流入が始まった。本部町を中心に本島北部の出身者が多数を占め、南部や離島、日本本土など、各地から多くの人が移り住んだ。52年に十字路市場、55年に本町通りが造られ、米軍関係者向けの「黒人街」も隣接した。

 銀天街は、前身の十字路市場と本町通りが合併して1976年に誕生。アーケードは78年に整備され、商店街のシンボルだった。90年代以降は大型商業施設の台頭などの影響で、空き店舗が目立つように。最盛期は120店舗以上あったが、現在は十数店舗が残る。

 婦人服店「ファッション・ミヤザト」の仲村タカ子さん(81)は、衣料品店がひしめき合った時代を懐かしく思う。「店主は高齢で後継ぎもなく、一軒一軒なくなっていった。客足も減って寂しくなったね」と、通りを見詰めた。

アーケードが撤去された銀天街=3日、沖縄市照屋

 玉城さんと同じく本部町出身の崎浜清子さん(86)の店は、化粧品や香水などを扱っていた。黒人街で働く女性や、パートナーへのプレゼントを買い求める外国人男性客も多かったという。「ペイデーやイベント時は山のように売れた。当時であれだけ売った人はいないだろう」と自負する。商店街の歴史とともに歩んだ人生。風景の一部だったアーケードの撤去に寂しさは募るが「若い人の力でもう一度、街を発展させてほしい」と願う。

 銀天街内にある研究所「コザX ミクストピア」代表の池原えりこさんは、住民らの証言や写真から街の地図を作成するなど、歴史の記録に取り組む。「戦後の苦境の中で立ち上がった人々が経済を生み出し、共存しながら繁栄した」と成り立ちを分析。街の魅力について「国や地域を越えたコミュニティーがつくられ、誰でも受け入れる場所だった。過去に学び、新しい時代とチャンプルーしながら新たな街を構築していくことが大事だ」と述べ、これからの街づくりに期待を寄せた。


 大型スーパーの進出でかつてのにぎわいを失った銀天街。老朽化したアーケードの撤去を機に、商店街の再起への期待が高まっている。街づくりの動きを追う。