王の島の影 〈いくさ〉は終わったのか <おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


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藤原健氏

 西原町の元町議、伊礼一美さん(73)は今も、〈いくさ〉は終わっていないことを感じる。

 1日、那覇市の県民広場に足を運んだ。戦没者の遺骨収集を続け、この日からハンガーストライキを6日まで続けた「ガマフヤー」の具志堅隆松さん(67)を激励するためだ。「体に気をつけて」「頑張るから」。短い会話を交わす。それだけで同じ想いを確認できる。伊礼さんは地域の青年会活動を通じて具志堅さんと交流を始め、もう50年になる。

 沖縄本島南部で戦没した人たちの遺骨が埋まり、血肉が染みこんだ土砂が辺野古新基地建設に使われる計画に、具志堅さんは身を削って抗議する。防衛局を沖縄戦への想像力が乏しいとして、告発もする。土砂を海底に埋めて、過去を忘れさせようとしているのか。沖縄戦は遠い昔話のこと、とでも言いたいのか。具志堅さんの強い想いに、伊礼さんは古里の島を思い浮かべる。島に刻まれた「戦史」は徐々に記憶が途切れようとしている。だが、忘れていいはずがない出来事があったのだ。

 今帰仁村・運天港から、フェリーで1時間。その島、伊是名島を伊礼さんの案内で巡る。

 琉球王国第二尚氏王朝の始祖、尚円王(1415~76)の生誕地である。縄文時代晩期(約2500年前)の竪穴式住居跡が見つかり、尚円王ゆかりの史跡、その銅像などが点在する。「歴史と自然、人が共生するときわのしま」(「伊是名村勢要覧・いぜな」)だ。

 島では沖縄戦当時の1945年、日米両軍の戦闘はなかった。米軍は上陸せず、正規の日本軍も配置されていなかった。だが、日本兵はいた。陸軍中野学校出身の残置諜者、不時着した特攻隊員。そして、本島から逃げてきた敗残兵。これらの兵士が、不時着や漂着した複数の米兵を射殺し、その後、家畜商と奄美出身の少年3人を、いずれも「スパイ容疑」で斬殺した。

 米兵殺害は5月から7月にかけてである。そして、島に住んでいた4人の命が奪われたのは本島で組織的戦闘が終結した2カ月も後だ。そのためか、岬の一角にある慰霊塔に刻印されている、島外で亡くなった437人の「一般住民戦没者」の中に、少年らの名は見当たらない。だが、加害者は明らかに兵士であり、戦闘中と同様に、ありもしない疑いをかけたのだ。「スパイ」の影に脅えた〈いくさ〉がもたらした死ではないか。

 本島からそれほど離れていないこの島は戦時中、情報が途絶していた。本島の戦闘状況はほとんど伝わらず、日本軍が壊滅状態になったころに本島から渡って来た敗残兵の「反転攻勢の密命を帯びている」との虚偽の説明を島民は信じ、兵士たちを歓待した。やがて、兵士たちは「軍当局」として島を武力で統括する。これに島民の一部も協力した。

 隣の伊平屋島には米軍が上陸し、時折、伊是名島も巡回した。家畜商は、そんな米軍と親しくしたように島民には映った。少年たちは奄美出身という偏見でいじめられ、うちひとりが泳いで逃げようとして捕らえられた。日本兵が潜伏している状況を訴えるつもりではないかとして、「軍当局」が「スパイ」とみなした。

 この虐殺について島民は、戦後しばらく口を閉ざしていた。伊礼さんも幼少期、草刈りの間に長老から「この辺に殺された人の墓があった」というあいまいな話しか耳にしていない。その後、伊礼さんが大学生時代に教えを受けた石原昌家・沖縄国際大学名誉教授の『虐殺の島』▽小学校時代の担任教師だった仲田精昌さんの『島の風景』▽県の『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』――に記録され、公になる。

 にもかかわらず、虐殺現場を巡ると、碑も含め、今も痕跡は何もない。一連の虐殺の意味をどう捉え、責任をどのように考えていけばいいのか。あれから76年。島の〈いくさ〉に決着はまだ、ついていない。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)