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知念高校(4)組踊の第一人者の意外な青春時代 眞境名正憲さん、宮城能鳳さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
眞境名正憲氏

 沖縄の至芸・組踊の第一人者である眞境名正憲、宮城能鳳は1950年代半ばに知念高校で学んだ。在籍中は組踊や琉球舞踊とは縁のないクラブで活動し、卒業後に琉球古典舞踊、組踊の世界に進んだ。

 眞境名正憲(83)は11期。伝統組踊保存会の会長として組踊の保全継承の取り組みを牽引してきた。

 1937年、佐敷村津波古の生まれ。53年、親慶原から移転して間もない知念高校に入学した。「勉学熱は強かった。生徒会が生まれ、知名洋二さん(元県経営者協会長)が会長に立候補したのを覚えている」と語る。

 小、中校生の頃から絵画が得意だった眞境名は美術クラブに入った。「絵ばかり描いていた。展示会を開いたり、新聞社のコンクールに出品したりした。賞を取ったこともある」

 美術クラブでの活動が意外な巡り合わせで組踊へとつながる。

 眞境名は卒業後、琉球大の美術工芸科へ進む。入ったサークルは演劇クラブ。「舞台美術を勉強できる」というのが理由だった。

 1年の時は役者もやり、学外での公演にも出演した。ところが客は入らない。「やっぱり『うちなーむん』でなければだめだ。琉球舞踊をやろう」と考え、阿波連本啓の元を訪ねる。

 「お金がないので、ただで教えてくださいとお願いした。今考えれば厚かましいが、先生は献身的に教えてくれた。1年間通って歌三線、舞踊を学び、すっかりはまってしまった」

 眞境名はその後、郷土芸能研究クラブに活動の場を移す。幼少時、祖父に連れられ、地域の村遊びに通ったことがあり芸能に親しんできた。琉球古典芸能の道にすんなりと入っていった。

 卒業後、大越(後の沖縄三越)へ入社。一時、琉球舞踊から離れていたが、68年に眞境名由康に師事した。86年に重要無形文化財「組踊」保持者に認定され、国立劇場おきなわの建設運動にも関わった。

 眞境名の手元に先祖の家系図が残っている。「学生のころから首里の流れを組むユカッチュ(士族)だという意識はあった」と語る。沖縄の伝統芸を守る誇りとともにその責務を担っている。

宮城能鳳氏

 宮城能鳳(82)は知念高校の13期。2006年に重要無形文化財「組踊立方」保持者(各個認定)=人間国宝=に認定された。

 38年、佐敷村小谷に生まれた。幼少時、古典舞踊のたしなみがある父の徳村磯輝から手ほどきを受けた。中学の頃、父の友人でもある玉城源造から古典舞踊と組踊を学んだ。「琉球舞踊は好きだった。『花風』は素晴らしい。あのように踊ってみたいと思った」

 琉球舞踊に魅力を感じながらも、知念高校では音楽クラブに入った。音大への進学を夢見ていた。「クラシック音楽のファンだった。専門的に勉強したいと思い、先生から声楽とピアノを学んでいた」

 ピアノの教本を3冊弾きこなすまでになったが、高校2年の時、家計を支えていた母が他界した。進学をあきらめ琉球政府で働く。

 琉球舞踊から離れ、仕事に打ち込んでいたが那覇市内で宮城能造の舞台を鑑賞したことが転機となった。「身震いがするほど感動した。琉舞の道で本格的にやってみよう」

 田舎出の自分が受け入れられるかと気後れしながらも宮城能造に弟子入りを願い出る。「僕は体重が46キロしかないひょろひょろの青年だった。芸能界の荒波を生きてゆけるか先生は心配しながらも、芯はあると感じたようだ」と振り返る。

 宮城は62年、琉球政府を辞め、琉球舞踊で生きることを決意する。周りの目は厳しかった。「周囲から『うどぅやーぐゎー』と呼ばれ、『仕事を投げ捨てるのか』とも言われたが、それ以上に琉球舞踊、組踊は好きだった。それほど踊(うどぅ)ぃぶらー、組踊ぶらーだったんでしょうね」

 自身の性格を「気丈夫で、これと決めたら他には目もくれず集中する」と語る。ひ弱に見えた青年はひたすら芸に打ち込む。70年、宮城能鳳の名取を許され、西原に宮城能造舞踊研究所の支部を設ける。90年、沖縄県立芸大の教授に就任した。

 「若いうちは、『ぶらー』が付くほど勉強しなければならない。卒業生が育っている。苦労したかいがあった」と話す。組踊への一途な思いは若い実演家へと確かに引き継がれている。

セピア色の春/ 1950年代の下校風景(知念高校卒業アルバムより)
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(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)