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ハーパー18歳、原石から日本バスケ界期待の星へ 運命決めた名将との出会い<ブレークスルー>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
全中男子準々決勝 相手の守りを交わしてシュートを放つコザ中3年時のハーパー・ジャン・ジュニア=2017年8月24日、那覇市の県立武道館

 2月までプロバスケットボールBリーグ1部の琉球ゴールデンキングスで特別指定選手として活動したハーパー・ジャン・ジュニア(18)=コザ中―福岡第一高出。幼い頃から憧れた黄金色のユニホームに17歳で袖を通し、リーグ史上最年少での出場、得点記録を更新した。優れた身体能力を生かしたダンクで会場を沸かせ、一流選手としての“華”も持ち合わせる。明確な目標の一つに日本代表入りも掲げる。中高の恩師による的確な指導が、夢見る原石を日本バスケ界のホープへと育て上げた。

■亡き師に恩返し

 2月7日、沖縄市体育館。Bリーグで自身初得点を挙げ、試合後にファンを前にマイクを握った。「コザ中の松島(良和)先生や福岡第一高の井手口(孝)先生がいなかったら、今の自分はいない。感謝している」。一バスケットマンとしての節目で真っ先に口を突いたのは、恩師への感謝の言葉だった。

 沖縄市山内出身。米国出身の父と那覇市出身の母の間に生まれた。小さい頃は「ファンクラブに入り、ホーム戦は全部見に行っていた」というほどのキングスファン。並里成に憧れ、小学6年でバスケを始めた。教員の母が並里の母校であるコザ中で勤めていたため、並里や渡辺竜之佑(現渋谷)らを外部コーチとして育てた名将、松島コーチの存在を知り「先生の下でバスケがしたい」とコザ中に進学した。

 当時の教えは「オフェンスではなく、ディフェンスで勝利する」というバスケ哲学。全国に比べて小柄なチームは沖縄らしい堅守速攻を掲げ、練習では「ずっと走っていた」と脚力を磨いた。3年時には地元開催の全国中学校体育大会で3位に。当時は身長173~175センチほどだったが、腕の長さや体の強さを生かしてセンターを務め、大会の優秀選手賞を獲得した。

 選手としての素地をつくってくれた松島コーチは昨年末、病で他界した。「朝練はいつも最初にコートに来て、すごい熱い方だった。尊敬している」と振り返る。「優勝したら松島先生が営む焼肉屋にみんなで行った。普段は普通のおじさんという感じだった」と慕っていた。「松島先生のためにも頑張ると誓った。(天国で)見守っていてほしい」。年末の全国高校選手権(ウインターカップ)の終了後、帰省して恩師宅へ向かい、手を合わせた。

■ガードに転向

試合後、憧れの並里成(右)と並んで観客に手を振るハーパー・ジャン・ジュニア=2月7日、沖縄市体育館

 身長180センチのハーパー。入学後、井手口監督から「上のレベルに行けば行くほど自分より大きくて強い選手はたくさんいる。この身長でセンターはやっていけない」と諭され、ガードに転向。「チームを引っ張りたい」と司令塔の役割に胸を躍らせた。

 当初苦労したのはハンドリング。「ガードの守備は激しいので、それに対するボールキープには苦労した」。日々のハンドリングメニューに加え、練習の前後に個人練習を積む日々。加えて一つ上の先輩ガードで、ウインターカップで2年連続ベスト5に輝いた河村勇輝に「お前は左ドリブルが苦手だからもっと練習した方がいい」などと助言をもらい、2年時にはベンチスタートで全国総体、国体、ウインターカップの3冠に貢献した。「ガードになってミスマッチが増え、ポストでのセンタープレーも生きている」と中学の経験もプラスに働いた。

 主将を務めた最終学年はコロナ禍で全国総体、国体が中止になり、迎えたウインターカップ。3連覇が懸かる中で「プレッシャーもあったけど、負けられないプライドがあった」と強い気持ちで臨んだ。しかし準々決勝で、優勝校の仙台大明成(宮城)に3点差で惜敗。泣き崩れた。「あれほどの悔しさは経験したことがない」。それでも「挫折があってから伸びる選手は多い。この経験を一生忘れずにいたい」と成長の糧にする。

 キングスでは4試合に出場し「当たりが違う」とプロの体の強さを実感した。4月からは昨年のインカレ王者で、尊敬する河村のいる東海大に進む。「大学でしっかり体をつくり、またこの舞台に戻ってきたい」。再び“B”のコートに立つ時、一回りも、二回りも成長したハーパーの活躍が見られそうだ。

(長嶺真輝)