震災経験「二度と忘れない」 2度目の東北勤務で誓う


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岩手県盛岡市で長女らとバーベキューを楽しむ平良和之さん(左)=2020年(本人提供)

 「会津の三泣き」という言葉がある。福島県会津地方の人たちの性格を表すとされ、「初めて来た時は閉鎖的な人間関係に泣き、なじんでくると人情の深さに泣き、去る時は離れがたくて泣く」という意味だ。那覇市出身の会社員、平良和之さん(35)は2009年から2年9カ月、会津若松市で暮らした。「自分の場合は二泣き。最初から最後まで、会津の人は温かかった」

 関西の大学を卒業後、保険会社に就職。最初の赴任地が福島県内陸部の会津若松市だった。赴任2年目に、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が起きた。原発から約100キロ離れた会津に、多くの人たちが避難してきた。

 沿岸部の営業所が被害を受け、平良さんの業務量も増加。契約者の安否確認に奔走した。街中の至る所に建てられたプレハブ仮設住宅を訪れることもあった。

 地元採用の外交員の中には、家族と連絡がとれなくなったり、自宅に被害が出たりしている人もいた。「地元の人たちが頑張ってる。空元気でも出さないと」と明るく振る舞った。

 12年4月、転勤で東京本社へ。「何もかも中途半端。もっと役に立ちたかったのに」と、後悔の念に襲われた。忙しい合間を縫い、送別会を開いてもらった。贈られた色紙には温かい言葉が並んでいた。「自分たちが大変な状況なのに、こんなにしてくれるなんて」。涙が止まらなかった。

 東京では仕事に追われ、東北への意識は次第に薄れていった。再び向き合うことになったのは19年1月。岩手県盛岡市へ転勤してからだった。

 盛岡で通うようになったキックボクシングのジムには、津波で甚大な被害を受けた釜石市など沿岸部の出身者もいる。親しくなるうち、自然と震災の体験を聞くようになり、あらためて復興への思いを知った。妻と子ども2人と、東北の良さをかみしめる日々だ。

 ただ、被災地以外では震災の風化が起きているように感じる。「福島で大変な人たちを見た自分ですら忘れかけてしまった。なじみがなければ仕方がないのかもしれない」

 2度目の東北勤務で、震災を忘れかけていた自分を認識した。震災の経験が今にどう生かされているのか。「自分だけでも、二度と忘れない」。振り返る大切さを実感し、強く誓う。 (前森智香子)