山口栄鉄さんを悼む 琉球の記録発掘「ウチナーンチュが翻訳」に使命感(照屋善彦・琉球大学名誉教授)


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明
トークイベントで、バジル・ホール、チェンバレンと琉球・沖縄の交流について熱っぽく語る山口栄鉄氏=2016年、ジュンク堂書店那覇店

 山口栄鉄さんが亡くなったことを知り、突然のことにとても驚いた。互いに琉球大学の卒業生だが、山口さんは私より6歳下。私が米国留学から沖縄へ帰ってきたのと入れ替わりの時期に彼は米国へ渡った。

 私が山口さんと初めて会ったのは、山口さんが30代の頃だったと思う。目がきらきらしていて、自分が取り組んでいる仕事に自信と誇りを持っていた。その後、私は沖縄、山口さんは米国に住みながら、手紙でのやりとりもした。

 人生の大半を米国で過ごし、プリンストン大学、スタンフォード大学、エール大学など米国でも有名な大学で教えていた山口さん。米国にある琉球、沖縄に関係する資料を掘り出して、翻訳し世の中に紹介するという使命感みたいなものがあった。例えばペリー提督の遠征記にある琉球についての記述でも、沖縄の人以外が翻訳すると正確ではない場合があった。ウチナーンチュ自身が翻訳しないといけないと考えていた。

 沖縄は廃藩置県で日本に組み込まれるなど、いろいろな歴史があるが「外国人からはとても尊敬されている」と話し、胸を張って翻訳していた。「卑屈になるな」とも話し、言葉の端々からウチナーンチュのプライドを感じた。米国人にもヤマトンチュにも決して負けない気概があった。沖縄は、世界でも個性的な存在であることを意識して米国を歩き回っていたと思う。背中を曲げずに胸を張って堂々と歩く姿は印象的だ。

 欧米人が残した琉球の記録を次々に翻訳し、研究する取り組みに先鞭(せんべん)をつけた。元々は言語学から始まり、彼の守備範囲は広い。

 一つの文化や歴史を理解するためには、いろんな角度から見る必要がある。琉球や沖縄についての記録はロシア語、フランス語、ドイツ語などでも残っている。山口さんが取り組んだことも踏まえ、沖縄研究がさらに多角的に進んでいくことを期待したい。(談、琉球大学名誉教授)