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知念高校(6)復帰運動、夢と熱気の中で 高良勉さん、大城和喜さん<セピア色の春―高校人国記>


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知念高校文芸クラブの文芸誌「あだん」(知念高校図書館所蔵)

 復帰運動が大きなうねりを見せる1960年代、高校生も政治意識に目覚め、行動した。その体験は卒業後の人生にも影響する。

 詩人の高良勉(71)は23期。活発な創作、評論活動を続けてきた。84年、詩集「岬」で第7回山之口貘賞を受賞した。

 49年、玉城村新原の生まれ。小学生の頃、校内のお話大会で優勝を重ねる利発な子だった。中学生の弁論大会では「祖国復帰」を訴える。「僕は素朴な民族少年だった」

 65年に知念高校に入学。屋良朝苗校長時代の伝統を受け継ぐ化学クラブで活動した。同時期に詩作を始めた。きっかけは山之口貘の作品だった。

 「貘の『弾を浴びた島』に『ウチナーグチマディン ムル イクサニ サッタルバスイ』とある。生意気にも、ウチナーグチが使えるなら、僕にも詩が書けると思った」

高良勉氏

 知念高の文芸誌「あだん」に自作の詩を投稿したところ掲載された。自分の作品が活字になった初めての経験だった。67年刊の「あだん」20号に高良の作品が載っている。

 「ぐそう花の咲く路/赤い路/ぼくはそこで/丸い小石をみつけた。/これはいつか/幼な友達と/四名そろって/イシナーグをした石。」(古里の石)

 復帰運動の現場も体験した。65年8月、来沖した佐藤栄作首相に「祖国復帰」を要求する県民大会に参加し、首相の宿舎となった東急ホテルまでデモ行進した。

 その頃、知念高で教師をしていた沖縄芸能研究者の當間一郎と出会い、組踊の魅力に触れる。

 「組踊の唱え『出様ちゃる者や』を巡って碩学(せきがく)の比嘉春潮さんと論争する姿に感激した」

 しかし、組踊が生活の糧になるとは思えず、深く探求することはなかった。「国立劇場ができる時代が来るとは予想しなかった。今になって、少し後悔している」と高良は語る。

 卒業前、学友と共にB52や基地の重圧にあらがう高校生を描いた劇「目ざめる」を作り、講堂で演じた。「劇を見ていた校長先生が渋い顔をして講堂を出て行った」

 高良は静岡大学へ進み、「文学と闘争の8年間」を送った。帰郷後、高校教師をしながら創作活動を続けた。昨年、詩集「群島から」を発刊。「いま、復帰前後の自分史的なエッセーを書いている」と語る。

大城和喜氏

 高良と共に「目ざめる」の上演に関わったのが、南風原文化センターの元館長で地域文化の掘り起こしに力を注いできた大城和喜(71)である。「自分たちも復帰運動の一翼を担っているという気持ちだった」と懐かしむ。

 南風原村喜屋武の生まれ。「4月28日には朝早く起きて日の丸を掲げる『復帰少年』だった」という少年期を送った。65年に入学した知念高も復帰運動の熱気に包まれていた。指導的な役割を果たしていた教師の姿が記憶に残る。

 「復帰運動が盛り上がっている時期。まだ夢があった。先生方も元気いっぱい。われわれは先生に相当引っ張られた」

 生徒会の活動に参加した大城は教師と共に集会やデモに足を運んた。辺戸岬のかがり火大会にも出た。教公2法阻止闘争が最高潮となった67年2月、立法院を群衆が包囲する様を間近で見た。

 「佐藤首相訪米阻止闘争(67年11月3日)にも高校生の代表として参加し、那覇の国際通りをジグザグデモをした。「高校生が沖縄の嵐の真っただ中にいた」

 68年、琉球大学に入学する。夢があった復帰は形を変え、県民の願望とは異なる現実が見えてきた。セクトが前面に出た闘いの現場に大城は戸惑う。

 「大学では自分の立ち位置を定めることができなかった。デモに行っても、どの隊列に付けばいいのか分からなかった」

 虚脱感を抱いたまま73年に琉大を卒業し、約2年間、働きながら東北地方をさまよった。その後、阿嘉島と粟国島で働いた後、南風原に戻り、開館したての町中央公民館に勤める。

 その時の心情を著書「父の約束」で「ムラにあっては伝統行事や/ムラの哲学を先輩からか受け継ぎ/ムラを生きムラを愛し」と記している。

 マブイ(魂)探しの旅を経て、大城は確かな立ち位置を故郷に置いた。

 

(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)