夫の死を経験し支援側に ひだまりの会okinawa代表・川満由美さんの16年 藤井誠二の沖縄ひと物語(25)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
自衛官(当時)による強盗致死事件の被害者となった川満正則さんの仏壇の横にたたずむ川満由美さん=2月19日、那覇市首里石嶺町(ジャン松元撮影)

 今年もまた、あの、「なんの気持ちも伝わってこない」手紙が届く頃だ。大分県内の刑務所に収監されている、夫を殺した加害者から年に1回、「謝罪」の手紙が送られてくる。「被害者の気持ちを理解するようにつとめます、反省していますといった、何も心が感じられないですね。毎年、同じような、誰かに書かされたような形式的な文面です」と川満由美さんは静かに嘆息して、夫の仏壇の方に目をやった。

 数年前に被害者通知制度を利用して受刑態度の一端を知ることができたが、同囚とけんか沙汰を起こすなどして刑務所内で懲戒を受けていることがわかり、「まったく事件当時と変わっていないのでしょうね」と、口を真一文字に結んだ。

絶望と闇の中に

 夫の川満正則さん(当時48歳)が、後をつけてきた那覇駐屯地に配属されていた自衛隊員の男に強盗目的で殺されたのは今から16年前、2005年2月26日のことである。予備校を経営していた夫は帰宅途中、人気のない細い路地で、コンクリートブロック片で頭部を殴られ、さらに加害者が盗み持っていた傘の尖(とが)った固い突端で顔面を貫かれた。さらに加害者は正則さんの腹を蹴り倒し、カネを奪って逃げた。もちろん加害者は正則さんと面識はない。

 近くの駐車場にクルマを取りにきた人に顔面が血だらけになった状態で倒れている正則さんは発見され、直ちに救急搬送されたが、1時間ほどで死亡が確認された。加害者はギャンブルにハマり、そのための借金を重ねており、正則さんから奪ったカネをサラ金の返済に充てている。妻の由美さんといえば、第2子を出産したばかりで病院から退院したところだった。葬儀はもちろんのこと、警察官や検察官から事情聴取を受け、公判など刑事事件の手続きが、いきなり絶望と闇の中に放り込まれた中で淡々と進んでいった。

 公判の傍聴など、正則さんの兄弟と会社のスタッフが付き添ってくれることがあったが、由美さん側の親族は公判廷には―いま由美さんが考えると―事件の詳細を知らされることに耐えられなかったのだろう、誰も姿をあらわしてくれなかった。揚げ句の果ては、「運命だから受け入れなさい」と直後に言ってくる高齢の親族の言葉に由美さんは打ちのめされた。「そのときは何を言われているのか、意味がわからなかったですね」。その上、夫が立ち上げた予備校の業務を引き継がねばならず、幼子2人を抱えた川満さんは精神の破綻すれすれのところで生活をしていた。

遺族ネットワーク

自宅の居間でネコとくつろぐ川満由美さん(ジャン松元撮影)

 まさに無援の前線に一人で立たされていた彼女は県内に頼るところがなく、県外の犯罪被害者遺族のネットワークにすがるように参加していた。ぼくはその頃、犯罪被害者や被害者遺族についてノンフィクションを多数書いていて、その取材活動を通じて知り合った。由美さん自身も「ひだまりの会okinawa」という自助グループをつくり、県内で犯罪被害者遺族支援の活動を始めていた。

 当時、ぼくは由美さんから届いたメールの書き出しを、事件の詳細を記録した拙著『アフター・ザ・クライム』に書きつけている。

 [私はその瞬間から時間を失くしてしまったんですね。同じような体験をした人と話したとき「あの日から時間が止まってしまった」とみなが言う感じです。今が何月何日なのか、何曜日なのか、夏なのか、冬なのか、(中略)どれくらい時間が経ったのかもわからない。まわりの風景もグレーにしか見えない。]

 由美さんは子育てや仕事に忙殺されながらも、「ひだまりの会okinawa」を続けていた。ぼくも事務局的な役割を担い、県内外から犯罪被害者遺族を呼んで公開の集まりを開くなどして活動を続けた。

 思い出されるのは、2009年にうるま市で起きた中学生リンチ殺人事件で、被害者の中学生の母親を支援し続けた頃だ。加害者の親たちが集団で遺族のもとを訪れる場を被害者の側が設定したとき、由美さんとぼくは立ち会った。泣き崩れる母親もいたが、仕事着の作業服のままやって来て開き直った態度の父親もいた。ぼくは、その詳細を『「少年A」被害者遺族の慟哭』という本に収めた。

県条例も目指す

 しばらくの間、「ひだまりの会okinawa」は休眠していたが、会を再始動させようと準備をしている最中だ。

 「これからめぐり合うかもしれない被害者や被害者遺族の役に立ちたい。自助グループとしての活動は生きていく上での核にしていきたい。夫が志を立てて設立した予備校は同業他社と合併して、かたちを変えて残しました。自分は会社から退き、再婚もしました。新しい人生を切り開くことも伝えたい」

 由美さんの心の海はいま、激しい嵐から少しだけ凪(な)いだ状態にあるにちがいない。

 「混乱を通り越して、生活を整え直し、今は静かな悲しみが続くという感じになりましたが、自分が経験してきた気持ちの浮き沈みや、振れ具合を支援する側として生かせたらいいと思っています。そして、そのことをきちんと自身で理解できるようになりたい。だからグリーフワークを学んでいます」

 グリーフワークとは、人生を共にしてきた大切な人を亡くした悲嘆を受け止める作業、プロセスをいう。

 「昨年はコロナ禍ということでさまざまなイベントがオンラインで行われていて、グリーフに関するセミナーをずっと受けてきました。今年から通信大学にも通う予定です。本当の意味で自分の人生をまた歩み始めた感じ。ここに来るまで16年もかかりましたけど」

 当時、幼かった息子も大学受験の時期になった。父と過ごした記憶は消えてなくなっている。下の息子は生まれた直後に病院で父親に会ったきりだ。

 「まるで透明人間として父が子どものなかにいる感じなんです。十数年経って子どもの心がどうなっていくのか、子どものグリーフを考えることも大切だと思っています。私自身が自殺未遂をしてきたことも事実なので、その事にも向き合わないといけないと。子どものグリーフを考えるうえで避けては通れないと思っています」

 2001年に大阪府池田市で起きた、小学生8人が一人の男に殺害された、いわゆる「池田小事件」の被害者遺族にも連絡を取り、相談もした。その遺族は事件後、グリーフワークに関わる資格を取り、幅広く活動をしているからだ。

 「ひだまりの会okinawa」ではやりたいことはいくつもある。犯罪や交通事件の被害者やその遺族のための、沖縄県独自の県条例を制定させるためにも動いていきたいと思っている。(ノンフィクションライター)(次回は4月中旬に掲載予定)

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

かわみつ・ゆみ

 1968年生まれ、沖縄県宜野湾市出身。上京して大学を卒業し、東京の出版社で2年間勤めた後、退職。帰沖後は、93年に正則氏の経営する学習塾に入社、95年に結婚。結婚10周年の2005年、当時3歳3カ月の長男と生後8日の次男を抱え犯罪被害者遺族となる。正則氏亡き後16年間にわたり、夫の跡を継ぎ会社代表を勤める。事件後06年8月に刑事裁判が結審し、翌9月「ひだまりの会okinawa」を立ち上げ、現在も代表として活動を続ける。問い合わせはhidamarinokai.okinawa@gmail.comまで。
 

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。