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「プロになりたい」迷い捨て、自分で決断できるまで 女子テニスプレーヤー・リュー理沙マリー<ブレークスルー>


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地元・沖縄を拠点にレベルアップを図るリュー理沙マリー=11日、那覇市の漫湖公園市民庭球場(大城直也撮影)

 テニス歴、既に20年。これまでは「親の夢を代弁していた」と言うが、今は自分の意思で「プロになる」という夢を口にできる。高校で全国制覇を達成後、米国の強豪大で腕を磨いてきたリュー理沙マリー(具志川東中―沖縄尚学高―オクラホマ州立大出)。周囲の重圧や将来に対する不安で競技をやめることも考えたが、昨秋から地元沖縄で再出発を図ると、2月に国際テニス連盟(ITF)の下部ツアーでダブルス初優勝を達成。「プロでやっていく決心が付いた」。迷いの吹っ切れた23歳が、新たなスタートラインに立った。

 ほぼベースラインから下がらないテンポの早いテニスが武器。弾んだボールの上がりはなをたたいて鋭い球を打ち込み、身長158センチという小柄さを感じさせない。2015年の高校3年時に近畿総体で県勢20年ぶりのダブルス優勝を達成し、シングルスも準優勝。続く和歌山国体少年ダブルスでも頂点に立った。「もっと実力を付けたい」という一心で、世界トップの選手がそろう米国へ渡った。

■増した力強さ

 入学したのは全米大学体育協会(NCAA)の団体ランキングで20位台のミシシッピ州立大。当初苦しんだのは、米国では主流のハードコートへの対応だった。慣れていた人工芝のオムニコートに比べ、より球が強く弾み、速度も速い。トップスピンを多用する屈強で大柄な選手も多かった。「オムニだと力がなくても打ち返せたり、厳しいコースも間に合ったりしていたけどハードは難しい」とパワー不足を痛感した。

 2年生でNCAA団体トップ10に入る強豪オクラホマ州立大へ転校すると、下半身や体幹を徹底して鍛えた。現在、体重は高校時より5、6キロ増した。成長を強く実感したのは2年時の18年6月、山梨県で開催されたITFツアーのシングルスに出場した時だった。

 予選から勝ち上がり、自身初の決勝へ。グランドスラム常連の土居美咲と対戦し敗れたが、「いつの間にかすごい選手と同じ舞台で戦えていた。体力と筋力が付き、それまで届かなかった球をしっかり構えて打てた」と、重い球に押し負けないパワーや球際の強さが格段に上がった。

 3年時には米大学の対抗戦で最優秀選手賞(MVP)を獲得し、NCAA主催の団体戦でも16強入りに貢献した。しかし、おのずと周囲からの期待が高まる中で「ちょっと疲れてしまった」。結果を残す一方で、よりレベルの高い選手も多く目の当たりにした。最終学年はコロナ禍で後半は大会がほぼなくなり、プロを志していた将来の見通しにもやがかかり始めた。

■葛藤の涙と覚悟

国際テニス連盟(ITF)の女子下部ツアーダブルスで優勝を飾ったリュー理沙マリー(右)と瀬間詠里花=2月、エジプト(提供)

 父の影響で、3歳でラケットを握った。学生の頃から「プロになりたい」と口にしていたが「実はあまりテニスが大好きと思ったことはない。『プロになりたい』というのも、親の代弁をしている感じだった」と明かす。プロは1年を通してツアーで世界中を巡り、練習環境や金銭面でも過酷な日々を送る。「やっぱり自分には無理なのかな」。強い心を持てずにいた。

 昨年8月に大学を卒業し、11月の帰国直前に両親に電話で伝えた。「テニスをやめる」。口に出した瞬間、ふいに涙があふれてきた。競技を始めて20年目。「もう人生の一部になっていた」。負けず嫌いな性格も相まって「プロになる前に終わるのは悔しい」と顔を上げた。

 「試合に出ないと通用するか分からない」と出場を決めたのが、エジプト大会だった。2月の現地では毎週大会が開かれていた。1~3週目のシングルスは全て予選敗退。1、2週目に出たダブルスも2回戦進出が最高で「自信をなくしていた」。しかし、エジプトで最後の出場と決めていた4週目の大会が人生の大きな節目となる。

 32歳のベテラン瀬間詠里花と初めて組み、次々と接戦を制し決勝に駒を進めた。大一番もセット数で並び、10点先取のタイブレークにまでもつれ込んだが「瀬間さんはすごい気迫で、勢いをつくるのが上手。自分も声出しで雰囲気づくりを頑張れた」と強気を貫き、頂点に上り詰めた。「優勝して『もっと挑戦したいな』という気持ちが湧いてきた」

 今後はスポンサー探しも含め、活動の基盤を一から構築していく必要があるが、晴れやかな表情に焦りや力みはない。「『プロになる』というのは、今は自分の決断です」。葛藤を乗り越え、凜(りん)とした空気をまとった23歳が新たなステージへ向かう。

(長嶺真輝)