ひめゆりの遺言 生きて、生き抜いてこそ <おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


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 戦争賛美の殉国死につながる「軍民共生共死」を強いられた沖縄戦で、これに抗(あらが)うように「生き抜いて」という言葉を発したひめゆり学徒について書く。自らは戦場で命を奪われたが、その言葉に込めた想(おも)いを今、改めて胸に刻み込む。

 1945年3月31日、首里城構内の物見台近くに掘られた「留魂壕」の前に、沖縄師範学校男子部の生徒386人と25人の教職員が整列した。米軍はすでに慶良間諸島を占領し、続く沖縄本島への上陸は、翌日に迫っている。生徒に向かい、首里城地下の第32軍司令部壕から来た野戦築城隊長の少佐が大声で言い渡した。「本日、ただいまから諸子は鉄血勤皇隊として軍に徴(しるし)された。すべてをなげうって皇土防衛の任に殉じる覚悟を決めるべし」

 以後、野田貞雄校長(6月下旬、八重瀬町の絶壁海岸ギーザバンタ付近で戦没)は「生徒の側にいるのが自分の仕事」と、勧められた司令部壕入りを固辞して生徒と同じ「留魂壕」にこもった。野田校長の在宅当番だった師範学校女子部の内間シマさんらひめゆり学徒隊4人と、女子部助教授で音楽担当の東風平恵位さん(6月19日、ひめゆりの塔のある第3外科壕で戦没)も加わった。

 戦況が悪化した5月下旬、司令部に従って「留魂壕」も撤収を余儀なくされる。その日のことだ。内間さんが、壕の入口付近で師範鉄血勤皇隊に召集された大田昌秀さんに、こう言った。

 「男子部の生徒さんたちは、いつも死ぬことだけが最上だと口にしています。私はそれではいけないと思います。死んでしまったら、もうおしまいではありませんか。決して早まった死に方はしないで、生きてください。生きて、生きて、生き抜いてこそ、より長く国のためにご奉公もできるのです」

 二人は同郷の久米島出身で顔見知りだが、それまで親しく口をきいたことはない。ただ、南部への出発直前、言い残したことを伝えなければという切羽詰まった感情が内間さんの表情に表れていた。「死」を当然のことと思い込んできた大田さんにとって当時、「生きる」の語感は「どこか遠いところから聞こえてくる妙な音楽のように耳朶に響いた」(大田さんが編者としてまとめた『沖縄健児隊の最後』)。

 内間さんは「口数が少なく、誠実な人だった」(ひめゆり平和祈念資料館編集の『墓碑銘』)。なぜ、あの時、大田さんに「生き抜く」ことを訴えたのか。野田校長が日頃から「命を粗末にするな」と生徒に教え諭していた影響もあったのか。今、知る術はない。大田さんに言葉を遺(のこ)してひと月にもならない6月19日、糸満市米須付近で砲弾に大腿部(だいたいぶ)をえぐられて後に消息を絶ち、わずか18年の生涯を閉じた。

 その声と想いが今に継がれているのは、92歳で没するまで戦後を生きた大田さんが沖縄戦の意味を問い続ける中で内間さんの言葉を記録しているからだ。研究者として政治家として沖縄戦後史に確固とした足跡を残した大田さんにとって、あの短い、しかし、価値観が転換するきっかけとなった重い会話が心の支えのひとつであったのではないか。

 糸満市に展開する「平和の礎」の建立は、大田さんの知事時代の業績だ。戦没者一人ひとりの名を刻印して記憶を継承する空間は、生き抜くことを絶たれた人々の胸の内に想いを馳(は)せる場でもある。そして、戦争は自然災害ではなく人災であるという自明なことに思考を巡らせたとき、人びとに理不尽な死をもたらした責任を問うことになるのも、これまた当然なことであろう。

 殉国を受け入れる一方で、生きて、生き抜くことに鈍感な時代であってはなりません。内間さんはこう言っているようだ。戦後も76年が過ぎたというのに今もなお行方不明のまま骨片となって地中に眠る戦争の犠牲者が、大切なメッセージを送り続けている。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)