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知念高校(8)導き手がいて、教えられて 村田涼子さん、儀間朝浩さん<セピア色の春―高校人国記>


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知念高校文芸誌「あだん」に載った村田涼子氏の詩「母の姿」(知念高校図書館所蔵)

 浦添市に拠点を置く社会福祉法人・若竹福祉会の総合施設長、村田涼子(68)は26期。「当時は苦学生が多く、私たちも貧しかった。今思えば、貧しい時代の中で希望に燃えていた」と振り返る。

 52年、佐敷町仲伊保の生まれ。佐敷小、佐敷中を経て68年に知念高校に入学する。5人姉妹の長女。生活は苦しく、差別を肌で感じる少女時代を送った。

 「母が台湾人で差別や偏見を受けることがあった。貧しさの中で差別される痛みを感じてきた」

 70年刊の知念高校文芸誌「あだん」23号に村田の詩「母の姿」が載っている。

 「頭が痛いと/夕べは寝ころんでしまった母さん/ムリしたんだネ…/いつも金においかけまわされて/働くことしか知らない母さん」

村田涼子氏

 差別されながらも「母は人を愛し、感謝することを忘れなかった」と村田。その姿に娘たちは影響を受けた。姉妹5人のうち4人は福祉の分野に進んだ。

 高校では復帰運動の熱気を感じ、刺激を受けた。「先生たちはパワーにあふれていた。先輩たちも正義感が強く、私たちは無関心ではいられなかった」と語る。自身の境遇から哲学にも興味を持ち「なぜ生きるのか、どう生きるのか」を探究することもあった。

 高校2年まで陸上部に所属した。下校時、学校近くの天ぷら屋に寄った。「天ぷらにたっぷりソースをかけて食べ、水をいっぱい飲んで空腹を満たした」

 卒業後、結婚。家にじっとしている性格ではなかった。点字や手話を学び、南風原町で手話サークルをつくって活動した。82年、若竹共同作業所にボランティアとして参加する。以来39年、がむしゃらに走ってきた。

 虐待など厳しい環境にある人たちを仲間として受け入れてきた。その仲間から多くを学びながら、福祉の道を歩んできた。

 「彼らが私を導いてくれた。私は今を一生懸命に生きるタイプ。そこに導き手がいて、教えられてきたというのが実感です」

儀間朝浩氏

 共同通信那覇支局長の儀間朝浩(60)は34期。ペルー日本大使公邸人質事件やイラク戦争で従軍取材を経験した。

 1960年、知念村知名の生まれ。根っからの野球少年で、知念高でも野球部に入った。「キャプテンをやったが、それほど野球がうまい方ではなかった。代打で出て、ライトやセンターを守った」

 当時の部員とは今も連絡を取り合う。「けんかもしたけど、高校時代の仲間は一生の付き合いだ」と儀間は語る。失恋も経験した。「青春の思い出です」

 夏の高校野球県大会が終わった後、記者職に関心を抱くようになった。新聞紙面に載った中国に関する記事がきっかけだった。

 「情報が少ない時代、記事が中国の実像を伝えてくれた。その時、記者を意識するようになった」

 琉球大学法文学部に進み、英字雑誌を発刊するサークルで活動した。84年に共同通信に入社。国内の支社・支局で基礎を学び、93年に外信部に移る。ニューヨーク支局に着任した直後の96年12月、ペルー日本大使公邸人質事件が起き、現場へ急行した。

 2002年秋、パキスタンのイスラマバード支局に赴任。03年3月から4月、米軍に従軍し、イラク戦争を取材した。

 「現場を回るのが自分の性に合っている。不安はあるが、紛争地を取材したかった。今考えれば無鉄砲だった」

 約1カ月の従軍の間、視界を失うほどの砂嵐に巻き込まれ「初めて後悔した」。4月6日には邦人従軍記者として初めてバグダッドに入り、銃撃戦にも巻き込まれた。ウチナー姓の従軍記者が激戦地から送ってくる記事が沖縄の新聞にも連日載った。

 希望していた那覇支局に赴任したのは昨年8月。1960年に支局が開設されて以来、県出身者の支局長は初めてだ。

 「本土の人はまだまだ沖縄を知らない。『本当は基地に賛成なんでしょう』と平気で言う。ヘイトもそう。そういうものがはびこらないよう役割を果たしたい」

 紛争地をくぐり抜けてきたウチナーンチュ支局長の決意である。

 

(編集委員・小那覇安剛)
 (文中敬称略)

(知念高校編はおわり。6日から伊良部高校編です)