「あと2分だ」「慌てるな、慌てるな!」。中継の画面越しでも、会場で声援を送るいつもと同じように、自然と声が張った。屋比久が五輪出場を決めると、母・直美さん、祖母・渡久山ミヨさんと自宅で勇姿を見守った父・保さんの頬を涙がつたった。
保さんは1992年のバルセロナ五輪の国内最終選考会で試合中に大けがを負い、そのまま引退。やり投げのトップ選手だった直美さんも、88年のソウル五輪では参加標準記録を突破しながら、けがで代表選考を勝ち抜けなかった。屋比久が小学4年で競技を始めて以降、親子鷹で夢を追い続けてきた保さんに万感の思いがあふれた。「自分が五輪に出られず、それから28年。やっとやってくれた」
一方、北部農林で監督を務める現役指導者としての顔も。「準決勝の内容は50点。第1ピリオドでパーテレポジションから点を取れなかったのと、2点を取られたのは絶対だめ」と手厳しい。「課題は見つかったので、そこを改善すればメダルにつながる」とさらなる成長に期待した。
「オリンピックに参加するだけなく、ぜひ表彰台に上がってほしい」と胸をふくらませたのは、保さんの高校時代の恩師である県レスリング協会の津森義弘会長だ。屋比久を孫のように思い、見守ってきた。全日本王者と五輪選手の誕生を目標に1976年5月に設立し、今年で45周年を迎える同協会。立ち上げに奔走し、今も競技発展に寄与する津森会長は「沖縄のマットで頑張った先輩がオリンピックに出場すれば、子どもたちにとって五輪が身近な目標になる。翔平には、今までやってきたことを自信を持ってやりきってほしい」と大舞台での悔いのない戦いを願った。