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伊良部高校(下)沖縄随一のバレーボール強豪校として 嘉大雅さん、多和田貴幸さん、元長賢太さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
37年の歴史を閉じた伊良部高校の最後の卒業生ら=3月6日、宮古島市伊良部

 伊良部高校37年の歴史で特筆されるのが男子バレーボール部の活躍だった。県高校総体や春の高校バレーに出場した伊良部高バレー部のプレーは県内外の注目を集めた。先月6日の卒業式・閉校式にはバレー部の元部員も姿を見せた。

 多和田貴幸(36)は17期。3年間、バレー部に所属し、九州大会にも出場した。「夏休みや正月で帰省した先輩たちが練習に集まって、一緒に汗を流した。みんなで伊良部高のバレーを盛り上げようという雰囲気がとても良かった」と懐かしむ。

 島内二つの中学校から生徒が伊良部高に入学する。同級生は皆、顔なじみだった。「部活で競い合った相手が一緒に伊良部高に入るので、最初からアットホームな環境だった」と語る。

多和田貴幸氏

 在校時から定員割れが続くようになる。生徒会長として生徒のまとめ役を担った多和田は伊良部高の全県校区制導入(03年)に向け、生徒を代表して宮古各地の中学校を回って学校をPRした。「伊良部高校は先生と生徒の仲がいい。ぜひ来てくださいと呼び掛けました」

 伊良部高を卒業後、多和田は福岡の大学で学び、那覇で働いた。2年前、下の子の誕生を機に宮古に戻り、市内でカフェを営んでいる。「雰囲気がどんどん変わっている。伊良部高校の閉校は寂しいけれど、小さな学校で思い出を共有できたのは良かった」

 元長賢太(32)は21期。現在、宮古島市役所で働いている。卒業式で後輩たちの門出を見守った。
 「3年間、バレーをやった思い出が一番だ。1年生の時(04年)にインターハイに行き、翌年、春高バレーに初出場した。先輩たちの力だ。いい経験をさせてもらった」

 大学進学、就職で島を12年離れ、2年前に宮古へ戻った。多和田と同様、伊良部の変化に驚きつつ、母校の閉校を惜しむ。
 「橋が開通し、建物が増え、だいぶ変わった。それをいい方向で受け入れ、発展してほしい。閉校は寂しいが、伊良部高校という名前、こういう高校があったことを忘れないでいてくれれば、と思う」

元長賢太氏

 琉球放送のアナウンサー、嘉(よしみ)大雅(28)は26期。卒業式と閉校式があった日、生放送の仕事にいそしんでいた。しばらく島に帰っていないという。
 小学生の頃からバレーボールに打ち込んできた。伊良部中在校時は県中学選抜チームの選手に選ばれ、週末は西原町に通い、練習に励んだ。本島の強豪校への誘いもあったが、伊良部高校を選んだ。その時の心境をこう振り返る。

 「美(ちゅ)ら島高校総体(2010年)のバレーボール競技が宮古島で開催されることになり、僕は同級生と一緒に大会に出ようと決めた。それがお世話になった島の人たちへの恩返しにもなると思った」

 地域の人々は生徒の活躍を物心両面で応援した。嘉の母もバレーボールに打ち込む息子を支えた。「うちはシングルマザーの家庭だったが、母は私のやりたいことをさせてくれた。不自由な思いをさせたくなかったのだろう」

嘉大雅氏

 3年間の高校生活のうち「9割はバレーボールだった」と振り返るほど練習に打ち込んだ。ポジションはオポジット。要の選手だった。練習は厳しかった。
 「午後4時に授業が終わって、5時から午後10時まで練習した。体育着は汗だく。3年間、体中がびしょびしょの記憶しかない」

 美ら島総体では強豪と競り合い、嘉の活躍が新聞紙面を飾った。高校を卒業し、沖縄国際大学に進む。バレーボールからは離れた。「3年間でやり切った。後悔はありません」
 大学時代、モデル活動を経験。16年に琉球放送に入社した。正社員として働くよう母が望んだという。「僕がラジオやテレビに出ると、母や僕と関わりのある人が喜んでくれる」。那覇のスタジオにいて島の優しい風を感じている。

 37年の歴史を閉じた伊良部高。「悲しい、というよりありがとう、お疲れさまという温かい感情だ」と閉校を受け止める。

 母校は心の中にある。これからも。 

(編集委員・小那覇安剛)

(文中敬称略)