朝鮮人の誇り、タイ、やんばる…名護「さんかく家」料理に重なる物語 藤井誠二の沖縄ひと物語(26)


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 名護市の中心部にある閑静な住宅地に、戦前の築と思われる古民家をリノベーションした「島のおそうざい さんかく家」は鎮座するように建っている。居住まいがいい。派手な看板などなく、敷地内に立って空を見上げると、視界を遮るものは何もない。過疎と表現すると言い過ぎかもしれないが、いい陽気なのに人の姿を見ない。耳朶(じだ)に響くのは鳥のさえずりと木々の葉がこすれる音だけ。靴を脱いで店内に上がると、一目で長居したくなる空気を感じた。ゆったりと距離をとったテーブルは、ほぼ埋まっていた。サルサが小さな音量で流れている。

県産食材を多用

 2020年6月にオープンして、ビュッフェスタイルで値段は1650円から、好きな惣菜(そうざい)を好きなだけ取って食べられるシステム。メインの肉料理などをセットにつけると600~700円上がる計算になる。営業時間は今のところ午前11時から午後5時まで。ランチとして決して安くはないが、すでに人気店になっていて、古色蒼然(こしょくそうぜん)とした家屋が息を吹き返したようだ。オーナーシェフの黄泰灝(ファンテホ)さんが「藤井さん、久しぶりです」と厨房(ちゅうぼう)から顔を出したかと思ったら、並べられた料理の種類の多さに驚いた。

古民家を改装した店舗「さんかく家」の門口に立つ黄泰灝さん=1月19日、名護市宮里(ジャン松元撮影)

 「常に25種類ぐらい用意をしてます。今日は、山原の春菊やほうれん草、キャロットラペ(フレンチの人参サラダ)、島らっきょうの信州味噌(しんしゅうみそ)漬け、青パパイヤ、ぜんまい、レッドキャベツ、山原産のきのこのマリネなどですね。だいたい沖縄北部の野菜を使ってます。メインが牛ステーキか合鴨(あいがも)で、他にもタイカレー、牛肉のワイン煮、ひじき、牡蠣(かき)のマリネ、サーモンのマリネなんかも用意しました。沖縄の食材に興味があって、伝統的な料理は同時に自由に進化するということを提案したいですね」

 食い意地が張っているぼくでも全種類は食べられないが、たらふく食べた。味付けがすべて違い、素の味が一つひとつ際立っている。丁寧に食材を扱って、お世辞ではなくすべてが抜群に美味(おい)しい。

 「店名の由来ですか? 妻が愛知県の知多半島の師崎出身で、黒田呉服店というのを妻の祖父母がやっていたんです。地域では屋根が三角だから、サンカクヤと呼ばれていて、その名前いいなと思ったんですよ」

 ぼくが彼と知り合ったのは栄町の路地で営業する「Refuge(ルフージュ)」だ。オーナーシェフの大城忍さんは中華で修行を積んだ才気あふれる人だが、中華の手法にフレンチやイタリアンのテイストを独自に重ねていって仕上げる料理はどれもずばぬけて美味(うま)い。黄さんはそこの厨房(ちゅうぼう)で働いていて、たまにカウンターに出ていて接客をしていた。寡黙で、タトゥーが似合った。その後、黄さんは栄町でタイ料理店『Chill Out(チル アウト)』をオープンさせ、人気店となる。どの料理を食べてもうならせる味だったが、「さんかく家を始めてみて、忍さんの味の重ね方とかに影響は受けていることをあらためて実感してます」と真顔になった。

 そもそもタイ料理にのめりこんでいったのは、「名古屋の割烹(かっぽう)で働いていたのですが、知り合ったタイ好きの人にタイにつれていってもらって、ハマりました。衝撃でした。辛味、甘み、酸味が主張しながら、同調しているというか、味のコントラストが自分に合っていた」から。タイに住みたいとも考えたが、「日本のこともまだ、よく知らないな」と思い、四国や九州をぶらぶらと一人で旅をした。沖縄では宮古島や伊江島でも働いた。伊江島ではたばこの葉の収穫をした。

存在証明

調理場で料理人の腕を振るう黄泰灝さん(ジャン松元撮影)

 黄さんは中学から20代半ばまで「ド不良だったんですよ」とはにかむ。幼稚園のとき、両親が別居し、どちかの家か、親戚などをたらい回しにされた。そのせいで6~7回も転校した。小学校は一時期だけ朝鮮初級学校に通ったこともあったが、「校内では朝鮮語以外禁止」という教育方針についていけず、トータルで公立学校含めて6年間のうち半分も通わなかった。中学に入ると、どこにも気持ちが落ち着くところがなく、しょっちゅう先輩の家などを転々と泊まり歩いた。公園で寝起きしていたこともある。中学も同様でほとんど登校せず、名古屋市の繁華街で遊び歩き、年齢をごまかして中2のときから働いていた。アウトローの「チーム」を束ね、喧(けん)嘩(か)沙汰も日常茶飯事だった。「悪いことは一通りしましたね」と笑うが、心の中はささくれ立って、猛獣のように他者にかみついていた。そして同時に、ここではないどこかを激しく希求する自分がいた。

 親父からはよく殴られた。一方、仕事で使っていたトレーラーに乗って自然の中に遊びに連れて行ってくれたりもしたが、父の暴力に対する嫌悪は消えなかった。父親はテレビでよく旅行番組を見ていて、「親父はテレビで見ているだけだけど、俺は自分で行ってやるという気持ちもあったかもしれないですね。それがたまたまタイだったわけですが」と当時の光景を黄さんは思い出した。父は、朝鮮人であることを隠すための日本名(通名)を黄さんにつけた。

 「父親の方に預けられてから、父は朝鮮人である事を隠す様に教育されたので―いま思うと辛い差別を経験したのだろうと思いますが―日々DVを受けるうちに、父が嫌いになり本当の事を隠さなければならない意味もわからなくなり、その反発として通名を捨てたんだと思います。そんなことを思い出しました。20歳ぐらいのときです。本を読んだりして、宙ぶらりんだなと感じていた自分の存在の歴史とかを知りました。黄泰灝という名前は自分の存在証明ですかね」

朝鮮人の誇り

 人の良さと自然の豊かさが気に入り沖縄へ移住したのは約16年前、28歳の頃。沖縄では「在日コリアン」の存在について認知が低くいせいか、「日本語上手だね」と言われることもしばしばだ。

 「母は飲食の仕事をしていて、生活は貧乏で荒(すさ)んでいましたが、朝鮮人である事に誇りを持っていて、よくお店のカラオケで韓国や朝鮮の歌を歌ってお客さんを楽しませていた事も思い出しました。子どもの頃は大嫌いだった母の仕事ですが、いまは自分も同じ事をしています。人生は皮肉だし面白いですね」

 沖縄に移住してからちょっと体調を崩して半年ぐらい愛知県に帰っていたことがある。

 「そのときに、沖縄のユタみたいな人に“今は(沖縄に)呼ばれてないよ(今は沖縄に住む時期ではないよ)”と言われた。沖縄に戻ってきたとき意識が変わっていて、沖縄の人や文化を料理を通して理解していく気持ちになったんです」

 精根こめた料理の向こう側にはさまざまな物語がある。胸の奥底の蓋(ふた)も開けてくれた黄さんの料理を味わう幸せを、かみしめる。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

ファン・テホ

 1977年愛知県名古屋市で、在日朝鮮人3世として生まれる。母親が飲食店経営だった影響もあり中学卒業後、音楽活動の側ら日本料理を学び、その後、飲食店を点々としてさまざまなジャンルの料理に触れる。28歳で沖縄に定住。宮古島、八重山諸島などを点々としたのち、37歳で那覇市栄町でタイレストラン「chill out(チルアウト)」をオープンさせる。5年間続けた後、名護市で「島のおそうざい さんかく家」をオープン。自身も家族で今帰仁に転居。化学調味料は使わず、県産食材を中心にジャンルにとらわれない料理を提供。毎週月・木が定休日。新型コロナ対策でディナータイムは自粛中。名護市宮里3の12の14。問い合わせは(電話)0980(53)1566。

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。