嵩元政秀さんを悼む 沖縄考古学の骨格作る(池田榮史・沖縄考古学会副会長)


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第32回東恩納寛惇賞を受賞し、贈呈式で記念講演する嵩元政秀氏=2015年2月27日、那覇市泉崎の琉球新報ホール

 嵩元政秀先生が亡くなられた。悲しくて、淋(さび)しくてならない。

 先生は人格者だった。そして、他人を思いやる優しい心の持ち主であるとともに、一方では自分に厳しい方だった。先生には沖縄考古学会の会長を長く務めていただいたが、これは先生の人格と性格に考古学会の会員が頼りきっていたことの表れである。在任中、誰も後任者のことを全く考えることなく、先生が会長の座にいてくださることを当然のことと思っていた。

 先生が考古学の道を志されたのは琉球大学在学中のことである。沖縄戦後、間もなく開校した琉球大学で考古学に触れ、当時の琉球政府文化財保護委員会の調査に参加する中で、本格的に考古学の世界に足を踏み入れられた。しかし、考古学がまだまだ専門的な職業とはなり得なかった時代である。先生は興南学園教員として奉職しつつ、琉球政府文化財保護委員会の活動に参加するとともに、復帰前の沖縄考古学会や琉球大学史学会の創設に関わられたのである。

 先生の考古学研究は北中城村ヒニ城跡の考古学的調査成果を踏まえた「グスク=集落説」の提唱に代表される。「グスク=聖域説」を提唱した地理学者の仲松弥秀先生と嵩元先生との間で始められたグスク論争は、研究者だけでなく、沖縄県民全体の関心事となった。嵩元先生の研究によって、考古学研究の存在と有効性が多くの沖縄県民の知るところとなったと言ってよい。

 また、嵩元先生は遺跡の調査と保存の必要性を強く意識しておられ、遺跡の保存・活用を求める沖縄考古学会の活動を積極的に進められた。その結果、沖縄県下の文化財行政、とりわけ埋蔵文化財に関する体制が整っていった。沖縄県立埋蔵文化財センターの設置はこのような活動の到達点の一つでもある。

 こうしてみると、嵩元先生の活動は現在の沖縄考古学の骨格を作ったことに改めて気付かされる。先生の謦咳(けいがい)は私たちの道標だったのである。先生、どうかこれからも泉下で私たちを教導し続けてください。