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辺土名高校(3)苦しい生活、音楽の力に支えられ…宮里優さん、島袋京子さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1965年ごろの辺土名高校の校舎(卒業アルバムより)

 プロゴルファー宮里聖志、優作、藍の3きょうだいの父、宮里優(74)は辺土名高校の20期。「やんちゃもしたけど、高校生活の3年間は財産となった」と懐かしむ。

 46年、東村平良で生まれた。ブラジル移住を経験した父の下で、畑仕事に従事した。「小学生の頃から馬を使って畑を耕していた」という。東小学校では野球、東中学校ではバレーボールに打ち込んだ。

 高校入学は62年。忘れられない思い出がある。

 「貧乏でシャツが買えず、父のシャツの袖を母が詰めてくれたものを着て入学式に行った。周りは立派な服装をしていて惨めな思いをした」

宮里優氏

 高校でもバレー部に籍を置く一方で陸上競技、特にやり投げに力を注いだ。幼い頃から竹を投げて遊んだといい、村内の大会では記録を出した。64年の東京オリンピックの聖火リレーではトーチを掲げて東村内を走った。

 音楽が好きな生徒でもあった。現在、「全沖縄おかあさんコーラス連盟」相談役の新島ユキが音楽教師だった。新島の弾くピアノの調べが忘れられない。

 「先生のピアノに感動した。『花の街』という歌を習った。僕たちはきかん坊だったけど、ユキ先生には甘えました」

 高校卒業後、本格的に音楽を学ぶために沖縄を離れたが、立法院議員の叔父の求めで沖縄に戻り秘書となる。復帰後は県職員や東村職員として働いた。村長選にも挑んだことがある。

 交際中だった妻のすすめで29歳の時にゴルフを始めた。持ち前の研究熱心さで腕を上げ、アマゴルファーとして活躍した。その後、ティーチングプロとなり、聖志、優作、藍を育てた。

 4年前、病に倒れた。その後、療養生活を続ける中で恩師の新島が励ましてくれたという。

 「先生は『言葉は忘れても音楽を忘れることはない』と言ってくれた。本当にピアノを聞いているとスムーズに歌詞が出てくる。先生の言葉を信じている」

 音楽の力に支えられ、宮里はゴルフ指導者の活動を続けている。

島袋京子氏

 宮里藍を応援する「アイカフェ54」を那覇市内で運営した島袋京子(74)も辺土名高校20期で、宮里優と同級生。琉球銀行初の女性支店長となった。

 母の出身地である奄美大島で生まれた。那覇で一時暮らした後、父の出身地の国頭村安波に移った。

 「よそから来て、生活保護を受けるほど貧乏だった。悔しい思いもした。でも、絶対に泣かなかった」

 苦しい生活の中で教師になる夢を抱いた。疎開児童を乗せた「対馬丸」の生存者で、安波小学校で教えていた平良啓子にあこがれた。「高校に行く時間をください」と親に懇願し、辺土名高校へ入学した。学費は6歳上の姉が工面した。「石油コンロと羽釜、食器を持って安波を出た。『15の春』です」

 高校では明るく、積極的に行動した。陸上部に在籍し、応援団に加わった。JRC(青少年赤十字活動)にも熱心に取り組んだ。

 「いつも明るく、何かがあると手を上げていた。貧乏であること、おなかをすかせていることを悟られたくなかった」と振り返る。

 それでも、やせ細った島袋を見かねた同級生が「自分の親に相談するから、家に来て」と声を掛けてくれた。同級生の母は女性の地位向上に尽くした元沖縄婦人連合会長の宮里悦。その家族と共に暮らした。

 「悦先生は小学校の先生で、いろんな人と自宅で平和や女性の地位向上をめぐって議論をしていた。そばで聞いて刺激を受けた」

 宮里と同様、島袋も新島ユキの弾くピアノに心を揺さぶられた。「先生にお願いして『乙女の祈り』を何度も弾いてもらった。励まされ、自分の願いがかなうような気がした」

 高校卒業後、家族を支えるため琉球銀行に就職した。平良の夫で辺土名高校で商業を教えていた平良真六の指導を受けた。

 「田舎者でも負けられない。家族を腹いっぱい食べさせて幸せにさせたいという思いで何にでもチャレンジした」。初月給でトランジスターラジオを実家に贈った。47歳で三原支店の支店長に。本店営業部副部長を経て、りゅうぎんディーシーの役員などを務める。

 島袋は自身の歩みを振り返り「多くの人に恵まれたと思う。『乙女の祈り』がかない幸せです」と語る。

(編集委員・小那覇安剛)
(文中敬称略)