疎開する人たちを乗せ沖縄から長崎へ向かっていた「対馬丸」が1944年8月22日、鹿児島県の悪石島沖で米軍潜水艦から攻撃を受け沈没しました。乗船者数1788人のうち1484人(氏名判別者数、2019年8月時点)が亡くなりました。犠牲者の半分以上が15歳以下の子どもたちでした。44年当時、那覇市にあった垣花国民学校4年生(当時10歳)だった上原清さん(85)=うるま市=は対馬丸から奇跡的に生還しました。「平和は私たちの心の中にある」と平和な世を願い、当時の記憶を語ってくれました。
日本政府は1944年7月、沖縄の子どもや女性、お年寄りを県外に移す「疎開」の方針を決めます。米国との戦争で日本が劣勢になり、沖縄が戦場になる可能性が出てきたのです。戦争の足手まといになる住民を県外に移し、日本軍の食糧を確保することが疎開の目的でした。
上原さんは8月21日、同級生らと対馬丸に乗船しました。22日夜10時12分ごろ。甲板で寝ていた時、ドラム缶をたたくような音と激しい衝撃で目を覚ましました。米軍の魚雷を受けた船内は騒然とし、船は傾き始めます。
暗闇で人々が右往左往する中、上級生が発した「飛び込め」の合図で、甲板にいた人は一斉に海に飛び込みました。再び攻撃されるかもしれない恐怖心より「早く飛び込まなければ沈むという不安が大きかった」と振り返ります。
その後、上級生3人と竹のいかだで6日間漂流しました。暑い日差しに荒波、飢えとのどの渇きに苦しみます。漂流中食べたのは魚1匹。お腹は満たされませんでしたが「食べた、という事実だけで力が湧いた気がした」と希望は捨てませんでした。
海水を飲みましたが体は受け付けません。最年長の先輩が「このままでは死んでしまう。おしっこを飲もう」と手のひらに自分の尿を出し口にします。上原さんも「死にたくない」との強い思いから少ししか出ない尿を口にしました。
漂流から5日目、水平線に黒い影が見えました。影が近づくにつれ「島だ! よし」と島への上陸が生きる希望に変わりました。上原さんらは奄美大島の大和村の海岸に流れ着きました。岩場に足を着けた時「助かった、もう沈むことはないと思うと周りがキラキラ輝いて見えた」と言います。
事件後、日本軍は米国に負けていることを隠すため対馬丸について話すことを禁じた「かん口令」を出しました。対馬丸での悲しみや苦しみを語ることも許されず、心の傷が癒えることはありません。上原さんは約50年、事件を語ることができませんでした。
「平和はどこかにあるものではない。私たちの心の中にある。思いやりのある人が増えることで、けんかや戦争はきっとなくなる」。一人一人が思うことで平和な世界は実現できると上原さんは信じています。
毎年8月22日には那覇市若狭の慰霊碑「小桜の塔」で慰霊祭が開かれています。
文・上江洲真梨子、新垣梨沙、写真・喜瀬守昭
(2019年8月掲載)
入館料は大人500円、中・高校生300円、小学生100円。開館は午前9時からで入館は午後4時半まで。
8月22日を除く毎週木曜・年末年始休館。問い合わせは対馬丸記念館(電話)098(941)3515。