キーワードで知る沖縄戦


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

みなさんは「学徒がくとたい」や「集団しゅうだん自決じけつ」(強制きょうせい集団しゅうだん)という言葉ことばいたことがありますか? 漢字かんじならんでむずかしそうですが、沖縄おきなわせんについてまなときによくてくる大切たいせつ言葉ことばです。このページでは沖縄おきなわせんまなうえでぜひっておいてほしい言葉ことばいつ紹介しょうかいします。


 

学童がくどう疎開そかい

1944ねんがつなのべいぐん攻撃こうげきでサイパンの日本にほんぐん壊滅かいめつしたことをきっかけに、政府せいふ沖縄おきなわふく南西諸島なんせいしょとうから老人ろうじんども、女性じょせい九州きゅうしゅう台湾たいわん疎開そかいさせることを決定けっていしました。このとしの8がつ22にち学童がくどう小学生しょうがくせい)をせて那覇なはから九州きゅうしゅうかっていたふね対馬つしままる」がべい潜水せんすいかん魚雷ぎょらい攻撃こうげき沈没ちんぼつし、やく1500にんくなりました。

沖縄おきなわ戦前せんまえ国民こくみん学校がっこういま小学校しょうがっこう)のがくどうやく6000にん家族かぞくはなれて熊本くまもと宮崎みやざき大分おおいた集団しゅうだん疎開そかいしました。疎開そかいした学童がくどうたちはさき学校がっこうないてら旅館りょかんなどで引率いんそつしゃとともに寝泊ねとまりをしました。さむさや空腹くうふく伝染でんせんびょうなどで犠牲ぎせいとなるどももおり、こく生活せいかついられました。その体験たいけんは「ヤーサン、ヒーサン(さむい)、シカラーサン」という言葉ことばかたられています。

米軍兵士に話しかけられる軍服を着た少年たち。米軍の記録では左は18歳、右は20歳となっている(沖縄県公文書館所蔵)

学徒がくとたい

べいぐん沖縄おきなわ上陸じょうりくせまなか日本にほんぐんりない兵力へいりょくおぎなうために沖縄おきなわの14~19さいまでの生徒せいとあつめて「学徒がくとたい」をつくり、戦闘せんとう参加さんかさせました。やく1900にん男子だんしやく1400にん女子じょしやく500にん)の生徒せいと動員どういんされ、男子だんし生徒せいと鉄血てっけつ勤皇きんのうたい通信つうしんたいとして物資ぶっしはこんだり、切断せつだんされた電話でんわせんなおしたりする任務にんむにつきました。女子じょし生徒せいと病院びょういんごう配属はいぞくされて負傷ふしょうへい看護かんご手伝てつだいました。

当時とうじ教育きょういくでは、天皇てんのうくにのためにくすことが国民こくみんつとめとおしえられていました。戦争せんそう状況じょうきょうなど正確せいかく情報じょうほう国民こくみんかくされていました。実際じっさいには日本にほんぐん劣勢れっせいたされているにもかかわらず、おおくの生徒せいとたちは日本にほん勝利しょうりうたがわずに戦場せんじょうへとかっていきました。

男子だんし学徒がくとたいぜん動員どういんすうやく半数はんすうにあたる816にん教師きょうし24にんふくむ)が戦死せんしし、女子じょし学徒がくとたいも202にん教師きょうし13にんふくむ)が犠牲ぎせいになりました。動員どういんすう戦死せんししゃすうからない学校がっこうもあります。

膝まで泥につかりながら逃げる日本兵。その横には米軍に殺された日本兵が横たわっている(沖縄県公文書館所蔵)

防衛ぼうえいたい

沖縄おきなわ配備はいびされた日本にほんぐんだい32ぐん兵力へいりょく不足ふそくおぎなうため、沖縄おきなわむ17~45さいまでの男性だんせいやくまんにんあつめて(防衛ぼうえい召集しょうしゅう)、兵士へいしとして戦闘せんとう参加さんかさせました。19さい以上いじょう男性だんせい現役げんえきへいとしてすでに召集しょうしゅうされていたため、兵役へいえきにつかずに地域ちいきのこっていた男性だんせいこそぎ戦場せんじょう動員どういんしたのです。

防衛ぼうえいしょうしゅう対象たいしょう当時とうじ法律ほうりつじょうは17~45さいまでの男子だんしとなっていましたが、かずわせのために45さいえるひと召集しょうしゅうされたれいもあります。

かれらは「防衛ぼうえいたい」とばれ、弾薬だんやくなどの物資ぶっし負傷ふしょうへい運搬うんぱん伝令でんれいなどさまざまな後方こうほう任務にんむたりました。日本にほんぐんによる作戦さくせんされたひともいます。戦場せんじょう危険きけん任務にんむあたえられた防衛ぼうえいたい戦死せんししゃやくまん3000にんのぼるとみられています。やくわり戦死せんししたのです。

座間味島の病院に入院している子どもたち。米軍の記録では、彼らは親によってのどを掻き切られていた。のどや額に包帯が巻かれている(沖縄県公文書館所蔵)

集団しゅうだん自決じけつ」(強制きょうせい集団しゅうだん

べいぐん上陸じょうりくした慶良間けらま島々しまじま沖縄おきなわ本島ほんとう各地かくちで、住民じゅうみんの「集団しゅうだん自決じけつ」(強制きょうせい集団しゅうだん)がきました。しゅりゅうだんかまなどで、親子おやこやきょうだい、夫婦ふうふらがころい、住民じゅうみんいのちとしました。

沖縄おきなわせんはじまるまえに、日本にほんぐん陣地じんちづくりなどに住民じゅうみん動員どういんしました。陣地じんち場所ばしょなどを住民じゅうみんくちからぐん情報じょうほうれるのをおそれた日本にほんぐんは、住民じゅうみんに「捕虜ほりょになれば女性じょせい暴行ぼうこうされたのちころされ、男性だんせい戦車せんしゃでひきころされる」「べいぐんおにけもののようだ」などとつたえて恐怖きょうふしんあたえ、べいぐん投降とうこうしないようにしました。べいぐん上陸じょうりくでパニックにおちいった住民じゅうみんたちは極限きょくげん状態じょうたいなかで「集団しゅうだん自決じけつ」(強制きょうせい集団しゅうだん)にまれました。

ほんぐんから住民じゅうみんたい自決じけつ命令めいれいがあったかについてはさまざまな議論ぎろんがあります。しかし、日本にほんぐん住民じゅうみん捕虜ほりょとなることをきんじたことや、しゅりゅうだん住民じゅうみんくばられたことなど、日本にほんぐん駐留ちゅうりゅうそのものが、みずからのいのちせん住民じゅうみんつよい、誘導ゆうどうする状況じょうきょうをつくりげたとえます。

やせ細った子どもたちが集められたコザ孤児院=1945年8月4日(沖縄県公文書館所蔵)

戦争せんそう孤児こじ

べいぐんは4がつ本島ほんとう上陸じょうりく直後ちょくごから、占領せんりょうした各所かくしょ収容しゅうようしょもうけ、孤児こじいん老人ろうじん施設しせつ併設へいせつしました。孤児こじいん辺土名へんとな田井等たいら越来ごえく糸満いとまんひゃくなど10カしょにあり、ピークにはせんにんあまりのどもがいたといわれていますが、くわしいかずかっていません。

戦争せんそうおやくしたや、げる途中とちゅう家族かぞくとはぐれたらが収容しゅうようされていました。そのなかには自分じぶん名前なまえ住所じゅうしょをいえないあかちゃんや幼児ようじもいました。栄養失調えいようしっちょう衰弱すいじゃくしてくなるあとちませんでした。戦後せんご琉球りゅうきゅう政府せいふがまとめた戦争せんそう孤児こじ総数そうすう沖縄おきなわ本島ほんとうで3000にんのぼるとされています。