皆さんは「学徒隊」や「集団自決」(強制集団死)という言葉を聞いたことがありますか? 漢字が並んで難しそうですが、沖縄戦について学ぶ時によく出てくる大切な言葉です。このページでは沖縄戦を学ぶ上でぜひ知っておいてほしい言葉を五つ紹介します。
学童疎開
1944年7月7日、米軍の攻撃でサイパンの日本軍が壊滅したことをきっかけに、政府は沖縄を含む南西諸島から老人、子ども、女性を九州や台湾へ疎開させることを決定しました。この年の8月22日、学童(小学生)を乗せて那覇から九州へ向かっていた船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃で沈没し、約1500人が亡くなりました。
沖縄戦前に国民学校(今の小学校)の学童約6000人が家族と離れて熊本や宮崎、大分へ集団疎開しました。疎開した学童たちは受け入れ先の学校内や寺、旅館などで引率者とともに寝泊まりをしました。寒さや空腹、伝染病などで犠牲となる子どももおり、過酷な生活を強いられました。その体験は「ヤーサン、ヒーサン(寒い)、シカラーサン」という言葉で語られています。
学徒隊
米軍の沖縄上陸が迫る中、日本軍は足りない兵力を補うために沖縄の14~19歳までの生徒を集めて「学徒隊」をつくり、戦闘に参加させました。約1900人(男子・約1400人、女子・約500人)の生徒が動員され、男子生徒は鉄血勤皇隊や通信隊として物資を運んだり、切断された電話線を直したりする任務につきました。女子生徒は病院壕に配属されて負傷兵の看護を手伝いました。
当時の教育では、天皇や国のために尽くすことが国民の務めと教えられていました。戦争の状況など正確な情報が国民に隠されていました。実際には日本軍が劣勢に立たされているにもかかわらず、多くの生徒たちは日本の勝利を疑わずに戦場へと向かっていきました。
男子学徒隊は全動員数の約半数にあたる816人(教師24人含む)が戦死し、女子学徒隊も202人(教師13人含む)が犠牲になりました。動員数や戦死者数が分からない学校もあります。
防衛隊
沖縄に配備された日本軍第32軍は兵力不足を補うため、沖縄に住む17~45歳までの男性約2万人を集めて(防衛召集)、兵士として戦闘に参加させました。19歳以上の男性は現役兵としてすでに召集されていたため、兵役につかずに地域に残っていた男性を根こそぎ戦場に動員したのです。
防衛召集の対象は当時の法律上は17~45歳までの男子となっていましたが、数合わせのために45歳を超える人が召集された例もあります。
彼らは「防衛隊」と呼ばれ、弾薬などの物資や負傷兵の運搬や伝令などさまざまな後方任務に当たりました。日本軍による斬り込み作戦に駆り出された人もいます。戦場で危険な任務を与えられた防衛隊の戦死者は約1万3000人に上るとみられています。約6割が戦死したのです。
「集団自決」(強制集団死)
米軍が上陸した慶良間の島々や沖縄本島の各地で、住民の「集団自決」(強制集団死)が起きました。手りゅう弾や鎌などで、親子やきょうだい、夫婦らが殺し合い、住民が命を落としました。
沖縄戦が始まる前に、日本軍は陣地造りなどに住民を動員しました。陣地の場所などを知る住民の口から軍の情報が漏れるのを恐れた日本軍は、住民に「捕虜になれば女性は暴行された後に殺され、男性は戦車でひき殺される」「米軍は鬼や獣のようだ」などと伝えて恐怖心を与え、米軍に投降しないようにしました。米軍の上陸でパニックに陥った住民たちは極限状態の中で「集団自決」(強制集団死)に追い込まれました。
日本軍から住民に対し自決命令があったかについてはさまざまな議論があります。しかし、日本軍が住民に捕虜となることを禁じたことや、手りゅう弾が住民に配られたことなど、日本軍の駐留そのものが、自らの命を絶つ選択を住民に強い、誘導する状況をつくり上げたと言えます。
戦争孤児
米軍は4月の本島上陸直後から、占領した各所に収容所を設け、孤児院や老人施設を併設しました。孤児院は辺土名、田井等、越来、糸満、百名など10カ所にあり、ピーク時には千人余りの子どもがいたといわれていますが、詳しい数は分かっていません。
戦争で親を亡くした子や、逃げる途中で家族とはぐれた子らが収容されていました。その中には自分の名前や住所をいえない赤ちゃんや幼児もいました。栄養失調で衰弱して亡くなる子は後を絶ちませんでした。戦後に琉球政府がまとめた戦争孤児の総数は沖縄本島で3000人に上るとされています。