共産党の差別認識問う 徳田球一と沖縄独立論<佐藤優のウチナー評論>


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佐藤優氏

 筆者が名護市を訪れるときによく立ち寄る場所がある。ひんぷんガジュマルの横にある公園の石碑だ。一つは、日本共産党創設メンバーの一人で戦後、一時期同党の書記長を務めた徳田球一氏(1894~1953年)の石碑だ。もう一つは、ゾルゲ事件で逮捕、投獄され獄中死した画家の宮城与徳氏(1903~43年)のものだ。宮城氏は米国共産党員だった。2人の沖縄人が国際共産主義運動に命を懸けて取り組んだ動機に筆者は強い関心を持っている。

 現在、共産党の公式党史によると徳田氏に対する評価は極めて否定的だ。

 <戦後、書記長となった徳田球一は、のちに「家父長制」とよばれた、粗暴で個人中心の指導をおこない、自分の方針への批判を許さない専断的な傾向をつよくもっていました。また、党の指導の中枢を徳田の腹心でかためる派閥主義が横行し、中央委員会内でも、党の政策や方針の民主的、集団的な検討が保障されなくなっていました。これは、党内での官僚主義を助長し、政治上の誤りを拡大する重要な要因となりました>(『日本共産党の八十年』日本共産党中央委員会出版局、2003年、97頁)。

 もっとも<自分の方針への批判を許さない専断的な傾向>は今の共産党も強く持っているように思えてならない。

 興味深いのは、共産党が1947年2月、東京で開いた第5回党大会で発表した「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」だ。

 <また、大会は、アメリカが沖縄を本土ときりはなして米軍直轄の特別地域としたことにたいして、徳田の提唱でこれを「沖縄民族」の独立への一歩としてとらえ「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」を採択しました。これは、明治いらいの専制政治による沖縄県民にたいする差別的抑圧への反発が、アメリカの沖縄占領への無警戒とむすびついて生みだされた誤りでした。アメリカの占領政策への批判がゆるされないもとで、党は、四八年八月の中央委員会総会で、「民族的、歴史的にみてもともと日本に属すべき島々の日本への帰属」を「講和に対する基本方針」にかかげました。そして、沖縄における祖国復帰運動の展開と交流をへて、五○年代以降、沖縄の全面返還の要求をかかげることになりました。こうして、「沖縄メッセージ」の誤りは克服されてゆきました>(前掲書75頁)。

 徳田氏は、沖縄人を日本人と異なる別民族と考えていた。プロレタリアート(労働者階級)に祖国はないというマルクスとエンゲルスが「共産党宣言」で強調した言説に忠実だった徳田氏は、琉球民族(沖縄民族)の1人であっても日本共産党に所属することに何ら矛盾を感じなかったのであろう。

 共産党は明治以来、少なくとも太平洋戦争終結までは沖縄人に対する「差別的抑圧」があったという認識に立っている。現在、日本の中央政府が進める辺野古新基地建設も日本の中央政府による沖縄人に対する構図的差別と筆者は考える。この差別構造には大多数の日本人が組み込まれている。日本による沖縄差別という認識について、現在の共産党はどう考えているのだろうか。筆者は「しんぶん赤旗」を毎日読んでいるが、この点がよくわからない。

 来年は、コミンテルン(共産主義インターナショナル=国際共産党)日本支部として日本共産党が創立されて100年に当たる。共産党は百年党史を刊行すると思う。この党史で、徳田球一氏と沖縄独立論、さらに現在も続く沖縄差別について共産党がどのような説明をするのか筆者は関心を持って見守っている。

(作家・元外務省主任分析官)