[日曜の風・吉永みち子氏]世襲政治 認める心情 “弔い合戦”


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吉永みち子 作家

 先週の日曜日、衆院と参院の補欠選挙があった。長野と広島と北海道。どこも野党が勝って3勝。そこには驚かない。オリンピックには熱心だけど、ワクチン確保は大失敗。不祥事テンコ盛り、緊急事態宣言を出したり引っ込めたりするだけの与党が3勝したら、むしろ驚愕(きょうがく)する。でも、実はこの選挙戦で、私はあることに驚いた。

 長野の選挙戦やその結果を伝える報道で使われた“弔い選挙”という言葉である。陣営が選挙民の同情を引くために使ったかどうかは分からないが(多分使ったと思う)、令和の時代にまだメディアが弔い選挙という言葉を堂々と使っているって、何か激しい違和感があったのだ。

 弔い選挙は、情に訴えるものである。この言葉が有効な手段として存続しているということは、私たちが存続させちゃっているということでもある。その結果、親族が後を継ぐという世襲という形も政治の世界の当然になっていき、まるで家業を守るがごとき政治家が増えていく。これでは新しい風が吹き込めない。

 江戸時代に、敵討ちや弔い合戦という忠やら孝の思想が武士階級のみならず庶民にも浸透したようだが、主や父や兄などを亡くした家族に同情し、その家の存続や残された親族を助けようとする心情も日本人に深く根付いたみたい。今でも忠臣蔵とか大好きだし。残された後継ぎや家臣を応援することに美徳すら感じる日本人はまだまだ多いのかも。もしかしたら世襲とかもどこかで容認しちゃっているのかもしれない。

 選挙で同情票を集める弔い選挙のやり方や、政治家の家を守るような世襲制には、かなり批判もあったはずだが、どっこい全然変わらないのは私たちの側の問題でもあるってことだ。政治家には、やはり危機にしっかり機能する理性を求めたいものだが、困ったことに、どこよりも理性より情が勝っているのが政治の世界。コロナ対策も理よりも情に流され右往左往だ。

 が、唯一の希望は、若い子に「弔い選挙って知ってる?」と聞いたら、「何それ?」とポカンとされたこと。家への意識も薄らいでいるし、この子たちの時代になれば政治も選挙も変わるのか。いやいや、「選挙知ってる?」「何それ?」ってことにならなきゃいいが。

(作家)