「血の島」の記憶 戦争につながる一切拒む<おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


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 ひめゆり学徒隊の引率教員として沖縄戦の戦場にさらされ、首に砲弾の破片を受けながらも生還した仲宗根政善さんは1995年、89歳で没するまでの戦後を、死者たちの鎮魂に生きた。亡くなってから26年になる。没後の時を重ねても、その遺(のこ)した言葉は重く、今後に継承されるべき強い響きを宿している。初代の館長を務めた「ひめゆり平和祈念資料館」が先月リニューアルしたのを機に、著作を読み返す。

「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」(以下、「手記」)の「まえがき」に、こうある。

 「乙女らは、『汗と涙と血を流しながら得た貴重な体験を、この地に埋めたくない』と叫びながらついに、永遠に黙してしまった。しかし、永遠に訴えつづけるであろう」

 生徒を巻き込んだ惨劇を忘れてはならない。地中深くに埋めるように封印してもならない。その無念の想(おも)いと願ったものを、後世に語り継いでいく。本文に、こうも書く。

 「二十幾万の生霊がこの島の土となったままである。この体験が地上に生かされなければならない。もし、この血の島のこうした悲惨事が人類に記憶されないならば、ふたたび戦いはくり返されるであろう」

 生徒が手榴(りゅう)弾による自決を試みる寸前、「いま、(手榴弾の)センを抜くんではないぞ」と押しとどめ、生き延びさせた。だが一方で、目前で砲弾に吹き飛ばされた凄惨(せいさん)な死に接して、なすすべもなかった。重傷の生徒を病院壕に置き去りにした。自身の無力を意識し、責めを一身に受け止めて自らを問い詰める。生徒と教員を戦場に追いやったものは何か。なぜこんな軍民混在の戦場が出現したのか。「石に刻む」を読む。

 「国を守るとは、一体どういうことであろうか。国を守るとは、一体誰から誰を守り、何を守ることであろうか。島尻南部に追い詰められて、そこで最期をとげた住民たちは、今もなお、地下から問いつづけ、訴えつづけている」

 この問い掛けは、沖縄戦の本質を浮き彫りにする。76年前の6月8日、沖縄本島南部の戦場を住民が絶望的に逃げ惑っていたころ、政府は「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」で、戦争の目的を「国体ヲ護持シ皇土ヲ保衛シ…」とした。

 当時、住民らは知る由もないが、勝算などあろうはずのないところまで追い詰められても、国の中枢は、守るべきものは国体、つまり天皇制であることを「戦争指導」の根幹と位置付けた。この大方針を支えたのは、米軍の本土上陸を遅らせようと沖縄で住民を盾にした非道な持久戦を選んだ軍であった。

 「手記」は、51年「沖縄の悲劇―姫百合の塔をめぐる人々の手記―」として刊行された。以後、68年「実録 ああ ひめゆりの学徒」、74年「沖縄の悲劇―ひめゆりの塔をめぐる人々の手記―」と改め、80年、この副題を現在のタイトルとした。その際の「まえがき」に、次の文が加わる。

 「本土に復帰しても沖縄基地は日本全体の53%(当時)を占め、その機能はますます強化されつつある。(中略)昔から平和であった沖縄のこの美しい空を、この青い海を、戦闘機の1機も飛ばせたくない。戦争につながる一切のものを拒否する」

 普段は激することがほとんどなかったという仲宗根さんに、かくも強い言葉を選ばせたものは何か。戦争への反省が希薄になっていくような状況への危機意識と、憤りが確実に読み取れる。そして、今も、心悩ませる時代に終止符は打たれていない。

 仮に存命であれば、仲宗根さんは一層強烈な言葉を発信するのではないか。「戦争からさらに遠くなった世代」へのメッセージを込めて装いを新たにした「ひめゆり平和祈念資料館」で、その心に想像を巡らせ、ひめゆりの生還者を義母とする私なりに、継承のお役に立ちたいと誓う。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)