宮古民謡・国吉源次さんを悼む 「歌が歌い方教えてくれる」天国でクイチャーを


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宮古民謡の世界を力強く歌い上げる国吉源次さん=2010年9月、那覇市寄宮の島唄カフェ「いーやーぐゎー」(撮影・國吉和夫)

 源次さんは約10年前に治療した前立腺がんが再発し、約1年前から入院治療を続けていたが、4日に満90歳で旅立った。同日、容体が急変したと連絡を受け、源次さんの妻・義子さんと病院に駆けつけた。しかし、着いた時には源次さんの顔に、白い布がかけられていた。義子さんは源次さんの頬をさすりながら涙を流し、語り掛けていた。私は「長い間お疲れさまでした、ありがとうございました。安らかにお眠りください」とつぶやき合掌した。

 源次さんは周知の通り、宮古民謡の第一人者として長く活躍し、早くからレコードやCD、工工四を発売し、リサイタルを開くなど幅広い活動を続け、宮古民謡のすばらしさを伝えた。そのため源次ファンも県内外、全国に多い。

 「伊良部トーガニー」にほれ込み、ご自身の持ち歌として大事にしていたが「何度歌っても満足に歌ったことがない」と常に漏らしていた。また「歌は歌い込むほどに、その歌が歌い方を教えてくれる」と、「練習の大切さ」を説いた。こうして「源次流」といわれる歌の節回し、息遣いなどが生まれた。

 宮古民謡歌手として後進の指導に当たる傍ら、人頭税廃止に関わる歌詞を「漲水(ぱるみず)のクイチャー」で歌い上げるのを誇りにしていた。「クイチャーの踊りは世界中どこに出しても恥ずかしくない。これに勝るものはない」と、大地を蹴り、力強く飛び跳ねるなど躍動するクイチャーの魅力を語り、普及に特別の情熱を傾けた。

 義子さんとの結婚もクイチャーがきっかけだった。義子さんは源次さんのことを「長所はバカがつくほど正直者。短所はこうと思ったら自分の考えを曲げない頑固さ」と話していたが、源次さんの指導で宮古民謡保存会の教師免許も取得し、夫婦仲良く舞台に立つ姿は幸せにあふれていた。

 源次さんは2003年に県文化功労者として表彰されたのを大きな喜びとしていた。その後「源次流」の歌い手の指導に力を注ぎたいと宮古民謡保存会を結成して会長に就任、以来20年余現職にあった。

 源次さんには同保存会の名古屋支部、乙女椿芸能学院内の支部、國吉源次宮古民謡研修会などで指導した会員をはじめ、若い世代の活躍を天国でクイチャーを踊りながら見守っていただきたいと念じている。

(垣花譲二・宮古民謡保存会事務局長)