矛盾の中、沖縄問う 美術村ニシムイ、政治・社会性排し抽象へ 前田比呂也<圧政下の文化活動>6


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前田 比呂也

 2019年の県民投票を前に、私は喜久村徳男と「Yes or No」という展覧会を開催した。そのオープニングでのことだが、来場者の一人が「なぜ君たちは、画家なのに辺野古に座り込みに行かないのか」と非難した。
 するとその場にいた「琉大文学」の同人だった川満信一は、即興の詩を朗読した後、「芸術家は、そこには行かない。その時間で自らの作品と対峙(たいじ)する」と語った。
 社会状況が表現に影響を及ぼすことを、コロナの感染拡大によって実感することとなったが、1948年、焦土と化した首里儀保に誕生したアートコロニー「ニシムイ」を中心に戦後沖縄美術の変遷とその社会的要因を見ていこう。

 

 軍政下の文化部

 太平洋戦争末期、一般住民を巻き込んだ地上戦により壊滅的な被害を受けた沖縄は、サンフランシスコ講和条約によって、献身的な犠牲を強いた祖国に切り捨てられ、米軍政という異民族支配を受けることとなる。
 米軍は、新たな軍事基地を「銃剣とブルドーザー」で強引に建設し、朝鮮戦争、ベトナム戦争へと沖縄を巻き込んでいく。その一方で、皇民化教育の中で無価値化され続けてきた沖縄の独自性を、後の離日政策とも絡め振興した。これらの矛盾に満ちた社会の中で、米軍や日本本土と向き合い沖縄を問い続けた美術家たちの理想と現実の狭間にニシムイは成立をみる。
 ニシムイには前身があった。軍政下の民政府文化部芸術課に芸能係と美術係が設置される。初代芸術課長は小那覇全考(ブーテン)、二代目は川平朝伸で、石川東恩納に文化部芸術課技官として美術家が集められアトリエを提供されたのだ。

 「首里」目指す作家

 沖縄の軍政は当初、海軍が担う。海軍は欧州戦線に注目した陸軍と違い、極東・アジア太平洋地域に重点を置いたため、戦争遂行には同地域の文化理解が欠かせないと判断し、軍政要員のためのマニュアル作成に文化人類学者を投入した。その成果である『民事ハンドブック』『琉球列島の沖縄人―日本の少数民族』は、軍政にあたる米軍指導者層の沖縄理解に影響を与え、ウィラード・ハンナ少佐は短い任期にもかかわらず美術家たちに強い印象を残した。しかし、彼らの沖縄理解はあくまで文化人類学的興味にとどまった。
 やがて海軍から陸軍への移管に伴い文化部は解消、官職を失った美術家たちは共同体設立を志し、復興のシンボルとしての首里を目指す。1948年2月から、民政府工務部の資材提供を受け、住宅と画室からなる二棟造りの規格住宅を建築、4月から名渡山愛順、大城皓也、屋部憲、玉那覇正吉、山元恵一、金城安太郎、安谷屋正義、具志堅以徳が次々に移動、美術村ニシムイとなる。
 床屋より画家のアトリエに米兵は長い列を作ったと言われるように、当初は米軍人の肖像画やスーベニア(土産品)としての沖縄風景などに旺盛な需要があり、週末のニシムイには多くの米軍人が訪れた。そこにはスタインバーグ軍医に代表される豊かな交流も存在し、こうした個の交流を下敷きに、沖縄と米軍に新たな関係を見た安谷屋の『望郷』に代表される作品も生み出される。
 強大な米軍としたたかに向き合い「戦果」を挙げたが、反面、ニシムイというエリートの存在が、沖縄美術の政治的・社会的発言への距離をつくった可能性も否めない。もとより、戦時下の反省からメッセージを排除した抽象へと向かう世界の美術を、沖縄もまた追いかけた。
 ニシムイは、戦後沖縄の文化復興の拠点として、美術に限らずさまざまな才能を引き寄せ多彩な交流を育んだ。戦後沖縄美術の黎明(れいめい)「沖展」創設のアイデアもニシムイにあり、新たな権威となった「沖展」を批判する「5人展」の抵抗もまたニシムイにあった。ニシムイで生まれた世代の断絶や芸術観の対立はグループ展の乱立へと展開、やがて1960年代には復帰運動と呼応する「グループ耕」などの前衛を志向するグループを生むが、社会的ムーブメントには至らなかった。

 復帰とともに終焉

 復興が進みニシムイ周辺も変貌、孤立していたニシムイも一般住宅に挟み込まれ境界は曖昧となり、役割においても明確な輪郭を失う。ニシムイは物理的終末を、沖縄臨時国体開催記念事業の那覇環状2号線道路建設に伴い、その地が削られることで迎えた。ニシムイは復帰とともに終わりを告げる。
 復帰の日、人々の無念を象徴するように、沖縄は激しい雨だった。沖縄が思い描いた祖国復帰は幻想となり、政治や文化が日本へ帰属する過程は、美術家に新たな無力感をもたらし、高度経済成長の日本消費社会へと抗(あらが)えずに飲み込まれることを強いた。沖縄の美術は、復帰への理想と重ねた本土団体展への系列化への失望を経て、個の内面へと向かう。
 社会情勢に翻弄(ほんろう)され続ける沖縄。皇民化教育でも異民族支配でもなく、コマーシャリズムや観光の商品化、繰り返される沖縄ブームでもなく、癒しや反戦のプロパガンダでもないもの。それらしく扮装を替えては波のように寄せてくる新たな支配に帰属することなく、美術を取りまくパトロンや稀人(まれびと)にも踊らされず、沖縄が「沖縄らしさ」を主体的に規定し自らの美術史を構築する日は果たして来るのだろうか。
  (おわり)

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 まえだ・ひろや 美術家。油彩と漆による現代美術表現など社会性の強い作品を発表する。美術を核に沖縄の多様なアートシーンや美術教育を支援。県立美術館建設事業に当初から関わり、戦後沖縄美術やアジア現代美術を研究。元県立美術館副館長。