NHK記者そして政治家として見てきた「沖縄」 変わらぬ基地、届かない沖縄の訴え


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 2012年4月28日、かつて沖縄と日本を隔てた国境、北緯27度線の海上に「沖縄を返せ」の歌声が響き渡った。沖縄の日本復帰40年の節目を迎え、国頭村と鹿児島県与論町が43年ぶりに再現した「海上集会」。国頭村長(当時)の宮城久和さん(77)=同村=は、奄美の代表者と握手を交わした。復帰前は学生として、記者として復帰運動の現場に身を置いた。「沖縄は日本の一部になったが米軍基地は残った。復帰前と内実は変わらない」と語る。沖縄と自身の体験を重ね、熱狂の歴史を見つめ直した。

「変わらぬ基地 続く苦悩」「いま 祖国に帰る」の見出しが並ぶ1972年5月15日の琉球新報朝刊1面

 1943年7月生まれ。教諭の父の出身地国頭村辺土名など、やんばる各地で暮らした。復帰運動の盛り上がりとともに年を重ねたが、復帰を意識したことはあまりなかった。

 転機は琉球大入学後。社会学科マスコミ専攻で学び、後に県知事となる故大田昌秀さんが主任教授だった。周囲は学生運動、復帰運動に傾倒していた。自身も「沖縄のため、復帰のために何かしたかった」と運動にのめり込んだ。復帰運動の象徴的な集会が繰り返された与儀公園では何度も「沖縄を返せ」を歌った。無我夢中で高揚感に包まれた。

 琉大卒業後の69年4月、NHK沖縄放送局の前身となる沖縄放送協会(OHK)に入ると、琉球政府を担当し、屋良朝苗主席を間近で取材した。同時にOHK労組「沖放労」に入り、組合活動にも力を注いだ。

 71年11月10日。沖縄全島で10万人規模の労働ストライキ「11・10ゼネスト」があり、米軍基地が維持されたままの「沖縄返還」に反対の声が上がった。浦添市では警官が火炎瓶を投げられて死亡した。

宮城久和さん

 殺害犯として逮捕・起訴されたのは当時20代の男性。警官を足で踏んだように見えた報道写真などが証拠とされ、一審では傷害致死罪で有罪判決が下された。だが二審では「消火・救助行為」が認められ無罪となった。「あれは火を消していたんだよ」。当時、事件現場近くで警官に追いかけられた宮城さん。自分のことのように怒りをぶつけた。

 「沖縄は余りにも、国家権力や基地権力の犠牲となり、手段となって利用され過ぎました。復帰という歴史の一大転換期に当たって、このような地位からも、沖縄は脱却していかなければなりません」

 71年11月、琉球政府は復帰後の沖縄の在り方をまとめた建議書を日本政府に突きつけた。その冒頭部分が、屋良主席自身が執筆したこの文だった。だが、結局は米軍基地の存在はそのまま。核が撤去されたのか疑念が残ったまま72年5月15日、土砂降りの中で沖縄の日本復帰を迎えた。

 屋良主席を取材してきた宮城さんは、国頭村長になるとオスプレイの配備撤回と米軍普天間飛行場の閉鎖・撤去、県内移設断念を求める「建白書」を政府に訴える立場となった。

 建白書は県内の全41市町村の首長や議会議長らが署名し、2013年1月28日に安倍晋三首相(当時)に直接手渡された。提出前日、宮城さんらは配備撤回を求め、東京・銀座をパレードした。「全部が全部、歓迎という訳ではなかった。『帰れ』みたいなことも言われた」。一行には旭日旗を掲げる沿道の団体からヘイトスピーチと受け取れる言葉が浴びせられた。一方、普段通りに買い物を続ける人々の姿もあった。沖縄の訴えを憎悪と無関心がかき消した。

 復帰から来年で半世紀。今も沖縄の訴えは一顧だにされていない。それどころか、4月28日の「屈辱の日」に祖国復帰闘争碑がある国頭村辺戸岬の上空を米軍機が低空飛行した。「基地は縮小したが、今も新たに造られようともしている。復帰は何だったのか。検証し続けないといけない」。変わらぬ現状を前に、今も問い掛けが続く。

(仲村良太)