米軍に土地を奪われゆく伊江島の記録 1955年~1964年の資料、琉球大研究所が公開


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 琉球大学島嶼地域科学研究所は14日、米軍嘉手納基地に配備され、核兵器を扱っていた米空軍第313航空師団の1955年3月~64年6月までの活動に関する資料をホームページで公開した。核模擬爆弾が使われていた伊江島で、訓練を優先する米軍の都合で住民が土地を奪われていった経緯が分かる。難易度の高い投下訓練でたびたび標的を外すなど、周辺住民を危険にさらす行為を繰り返していたことも記されていた。

米軍の土地接収で破壊された住民の家屋跡=1955年、伊江島

 資料によると、伊江島補助飛行場に射爆撃場が設置されたのは54年7月。読谷村内にあった訓練拠点(ボーローポイント)の移転を余儀なくされた米空軍が、地形や嘉手納基地との距離などから既に飛行場が整備されていた伊江島を選定した。本島は人口が密集し土地代が高くつくことや、本島全域の上空が航空機の経路であることも判断材料になったと明記されていた。

 米軍は同時期、戦闘機が高い高度から急降下し、核兵器で攻撃するための訓練用地を確保する必要に迫られていた。この種の訓練について、日本人は「敏感」になっており、本土では制限せざるを得ないとして、米統治下にあった伊江島を使用する方針を固めていく。

 空軍は他の訓練と併せ54年7月から小型の戦闘爆撃機を使い、低高度で進入し敵の上空で急上昇しながら爆弾を投下する、難易度の高い低高度爆撃法(LABS)の訓練も行っていた。標的が狭すぎて何度も爆弾を標的外に落としたため、住民を強制排除し射爆撃場を拡張した。

 公開された資料は我部政明琉球大名誉教授が米空軍歴史研究所から入手し、保管していた。中国を標的とした核巡航ミサイル「メースB」の沖縄配備や、川崎ジェット機墜落事故への対応などの資料も含まれている。


住民の抵抗「幼稚」 米軍報告書 表現に占領意識現れ

 米空軍第313航空師団の歴史報告書の1960年版では、住民の抵抗運動を「幼稚」「嫌がらせ」などとするなど、住民を蔑視するような表現が散見される。生計を立てるために基地内でスクラップを拾う人々を「侵略者(インベーダー)」とも表現。土地接収から時間がたって基地の存在が既成事実となり、米軍の占領意識が強まったとみられる。

 伊江島の土地闘争を率いた阿波根昌鴻氏について「プロの厄介者」「伊江島のタヌキ」「自己満足」などと悪口を重ねている。射爆撃場を米軍の都合で広げるための土地接収を巡り、住民の抵抗運動について「阿波根氏と工作員が(拡張区域の住民を)扇動」したとし、「受動的な抵抗だが空軍をいらつかせた」と述べている。

 土地を奪われた住民はたびたび基地内でスクラップを回収して販売し、生計を立てていた。米軍は「軍の勅令を無視した潜入」と表現した。基地内から拾ってきた爆弾を住民3人が解体していたところ、爆発して2人が亡くなった事故についても触れている。「スクラップコレクターが自ら死に、空軍を困らせた」と記載している。