昼は壕に隠れ、夜は食料探し…「戦争は嫌なもの」100歳が語る沖縄戦


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ

 【今帰仁】沖縄戦を体験した知念(旧姓渡名喜)ハルさん(100)=今帰仁村=が6月23日の慰霊の日を前に当時の体験を振り返った。沖縄戦では家族6人で北部の山中に避難したハルさん。戦争で男手を奪われ、家族を助けるために食料探しなどに奔走した。「うちだけでなくみんな大変だった。戦争は嫌なものだよ」と静かに語った。

「家族の戦世の話を伝えたい」と取材に応える(右から)渡名喜康広さん、知念ハルさん、渡名喜一江さん。写真はハルさんの兄・渡名喜長榮さん=5月18日、今帰仁村仲尾次

 沖縄戦時、ハルさんは母の渡名喜マツさんと兄・長榮さんの妻のカメさん、その子ども3人の計6人で、今帰仁村仲尾次の自宅近くの山中に掘ってあった壕に避難した。夫や兄弟4人はいずれも出征しており、家族の食料を探すのはハルさんの役目だった。

 ハルさんは「口伝いに米軍が上陸したと知った。怖かったよ」と振り返る。昼は壕に隠れ、夜になると芋を探しに出掛けた。激しい攻撃はなかったが、時折放たれる米軍の照明弾におびえた。

 「今帰仁村史」によると米軍は4月中旬に本部半島を制圧し、避難民に「山を降りて生産に従事せよ」と命じた。ハルさんらも4月中に山から家に戻って生活を再開したと思われる。

 6月下旬、今帰仁村民は米軍の命令で久志村(現名護市)の「大浦崎収容所」に移動した。「米軍のトラックにしがみついて行った。収容所では米軍の倉庫に入って“泥棒”もしたよ。戦果アギヤーさ」と話す。食料不足のため、友人と米軍の倉庫に潜り込んで缶詰を「ちょろまかした」。「ギブミー」という英語を覚え、米兵と食料の交渉や物々交換をしたこともある。ハルさんは「得になるものはすぐに覚えるわけ」と笑う。

 沖縄戦中にハルさんと避難し、戦後も生活を共にしためいの渡名喜一江さん(81)=今帰仁村=は「たくましい叔母さんがいてくれたから、私たちは生きられたんだよ」とハルさんを見つめて話した。

 戦後、ハルさんの兄で一江さんの父の長榮さんが南洋戦線から帰還した。しかし他の兄弟3人は戦死し、遺骨も帰ってこなかった。ハルさんの母のマツさんは、毎年慰霊の日になると息子たちの名前が刻まれた位牌(いはい)を見つめ、一日中涙を流していたという。

 兄の長榮さんも戦争について口を閉ざしていたが、自身のカジマヤー祝いの席で孫やひ孫を集め、初めて戦争体験を語った。南洋で米軍の爆撃に遭ったことなどを話し、「戦争は絶対にいけない。いいことは一つもないよ」と伝えた。

 ハルさんのおいで長榮さんの次男の渡名喜康広さん(65)=与那原町=は、叔母や父母の戦中戦後の話を聞き、「苦労や悲しみは計り知れない。あの戦争を乗り越えて生きてくれたから今の私たちがいる。家族の体験を次世代にも伝え、力を合わせて生きていきたい」と語った。
 (赤嶺玲子)