マッカーシズム旋風 「反民主主義」一面も 米の理不尽さ、沖縄犠牲<アメリカのつくられ方、そして今>


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 終戦後の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)によって治安維持法や特別高等警察が廃止され、民主化を推進したかに見えた。しかしその実、GHQのマッカーサー最高司令官は、言論、表現の自由を封じ込め民主的な勢力に対する厳しい弾圧を行った。民主主義を掲げる米国は時として反民主主義的な一面を見せ、沖縄はその犠牲になり今に至るまで米国の理不尽さと闘っている。

 アメリカの民主主義は時として自由を奪い、不平等な牙をむくいい加減なものだと痛感する。その「反民主主義」のいい加減さが露呈したのが、マッカーシズムと言われる集団反共ヒステリーだった。

 1940年代後半に米ソ冷戦が始まり、ひそかに原爆の資料がソ連に渡り、その開発が進み米国を凌駕(りょうが)しつつあった。原爆の脅威におびえる米国民の統一思想は反共で一致し、アメリカの共産主義への恐怖はヒステリー状態になった。そこで登場するのが共産主義者はスパイだと主張するマッカーシー上院議員だった。

 1950年、マッカーシーは「国務省内で多数の共産主義のスパイ網ができ、共産党員のリストを入手した」との発言をした。最高裁は共産党員の逮捕は合憲との判決を下し、連邦政府内や各州職員、学者、芸術家、言論人らの疑わしき者は摘発され、忠誠審査にかけられた。

 いち早く赤狩りの標的となったのは当時、急進派リベラルの人たちが多くいた映画界だった。ハリウッド俳優組合の会長だったロナルド・レーガンが俳優らを密告し赤狩りに協力した。その功績でレーガンは政界入りのチャンスをつかむことになる。議会に召喚された映画人らは、投獄され映画作りの道と収入が閉ざされ、映画界では疑心暗鬼を生みお互いに密告し合う分断が起こった。

 喜劇王のチャプリンは共産党員ではなかったが、資本主義を揶揄(やゆ)する「モダン・タイムス」や「独裁者」等の作品で常に社会批判を含蓄したため、共産主義者のレッテルを貼られた。映画の中でチャプリンは「一人殺せば殺人者だが、大勢殺せば英雄になる」と戦争を批判した結果、国外追放になり英国へ帰国した。

 ジェームズ・ディーンの出世作「エデンの東」のエリア・カザン監督も嫌疑をかけられたが、カザンは11人の仲間を売り自身は投獄を免れた。98年にアカデミー賞名誉賞を受ける際、会場からブーイングが起こり、スタンディングオーベーションが慣例だが、ほとんどが座ったままだった。何千何万の国民が人生を台無しにされたこの赤狩り旋風。マッカーシー議員の情報はフェイクであったとみなされ、マッカーシーが政界から締め出された後に終息した。その後マッカーシーは、失意の中アルコール中毒で、48歳で亡くなった。ある説では、彼の得た情報はFBI長官フーバーから回ってきたフェイク情報で、フーバーはマッカーシーを利用して「反共産主義」宣伝の、思想統制の広告塔として使ったとされている。

 さて昨年、日本学術会議会員の中で安保に反対した学者らが任命されなかった件は、「学問の自由への介入」とされ令和の赤狩りかと思わせた。米国に中距離ミサイルの配備を促され、その有力な候補地が沖縄であると言われているが、菅政権は安保反対の6人が将来その件で反対する姿勢を察し、防御策を敷いたと言われている。赤狩りのような行為は時代錯誤も甚だしく、日本の民主主義も死に体かと情けなく腹立たしい気持ちになった。

 (鈴木多美子バージニア通信員)