ガマで気迫の声…「あなたたちこそ、出なさい」<おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 沖縄戦で住民が駆け込んだガマでの気迫と勇気を戦後、新聞人が書き残している。巡ってきた慰霊の月。この史実に、改めて目を注ぐ。

 76年前の6月。沖縄戦は、米軍から見れば掃討戦、日本軍側は敗走しながらの抵抗戦に様相を変えていた。勝敗はもう、決している。にもかかわらず、戦闘はあちこちで続発した。日本軍は兵士に降伏を禁じ、民間人にも捕虜になることを許さなかったからである。戦没住民はこの月、急増する。

 こうした状況下での、ガマの記録である。

 38歳で召集され、防衛隊の2等兵だった池宮城秀意さんの小隊は病院の器材を搬送しながら、糸満市のガマに避難した。奥にいた別の隊の見知らぬ少尉が、入り口付近に向かって怒鳴った。「そこの女ども、ここから出て行け」。

 座り込んでいた60歳前後の女性、その家族と思われる20歳前後の娘さんと幼い少年の3人はおびえて返答できない。少尉は一層大きな声を上げる。「返事をしないか。ここはお前たちがいるところではない」。沈黙がややあって、次に、驚くべきことが起きた。

 娘さんが立ち上がった。そして、毅然(きぜん)とした態度で言った。「私たちは出て行きません。ここは私たち沖縄のものです。あなた方が出て行ったらよいでしょう」。さらに語気を強めて、追い打ちをかける。「あなた方は帝国軍人でしょう。アメリカと戦うために沖縄にやってきたのではありませんか。だのに、壕から壕に逃げ回ってばかりいて、おまけに、地方民を壕から追い出すなんて、そんな帝国軍人がいますか」。

 少尉は「今日中に出ろ」と捨てぜりふを残して奥に引っ込んだ。周りにいた人たちは、娘さんに拍手を送りたい気持ちでいっぱいだったが、押し黙ったままだった。池宮城さんはすぐ近くで、このやりとりを目にしていた。後に「沖縄の戦場に生きた人たち」を著し、こう書き記す。

 「娘さんは思いつめていたことを一気にしゃべったのであろう。蒼白(そうはく)な顔に目をきらきらさせ、相手に挑戦する気迫がありありと見えた」「人間は追いつめられると弱くもなるが、逆に猛然と立ち向かう者もいる。この娘さんも何十日の間、惨めな目にあい、日本軍の行動についていろいろと批判的に考えもしたに違いない」「彼女は胸が煮えくり返ったのである。彼女は思いきり胸のしこりを投げつける相手を見つけたのであった」

 この本の副題は「沖縄ジャーナリストの証言」である。池宮城さんは戦後は琉球新報の編集局長、社長を歴任しながら米軍政下の基地問題、日本復帰運動で住民の側に立って論陣を張った。勇退後も、沖縄タイムスの豊平良顕さんらと平和運動の旗を振り続けた。権力に食ってかかる矜持(きょうじ)を持った戦後沖縄の代表的新聞人として生き、1989年、82歳で没した。

 「歴史の歯車に巻き込まれて苦悩する戦中戦後の沖縄の大衆の姿を、ぜひとも描いておきたかった。日本人一般の沖縄意識は、一つの軍事的史実のなかよりも、そのような大衆の体験のなかに見出されなければならないと思うからである」

 「歴史の証人として」とした「まえがき」の一部である。戦場と、敗戦後の群像を自らの足跡をたどりながら2段組で300ページを超える分量で描いた膨大な体験集からすれば、ガマでのことは、小さな出来事だったかもしれない。砲煙弾雨の戦場で、娘さんたちはその後、どうなったのであろうか。消息を知るすべはない。記述はガマの「そのとき」で尽きている。

 ただ、傍観した人たちを鼓舞するように少尉に真正面からぶつかっていった娘さんの気迫は、これを勇気の記録として特記した池宮城さんの鋭い観察眼を通じて、私の心にも響く。沖縄のジャーナリストの気骨を支えたこの体験を、「自分ごと」として胸に刻む。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)