「俺みたいになるな」飲酒してバイク事故…宮城恵輔さんの「第二の誕生日」 藤井誠二の沖縄ひと物語(28)


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 「藤井さん、トイレ、手伝ってもらっていいですか」

 宮城恵輔さんはゆっくりテラス席の椅子から立ち上がって、店の奥にあるトイレまで慎重に歩く。ぼくは傍らをついていって、トイレのドアを開け、パンツと下着を足首あたりまで下げて、彼は便座に腰を下ろす。「終わったら呼びますね」。終わったら、トイレの中に入り、また下着とパンツを上げ、ベルトを締める。

 「シャツはパンツの中に入れる? それともパンツの上に出す?」。「どっちでもいいですよ」。宮城さんは両手が使えないので、排せつや食事、着替え、歯磨き、入浴、クルマのドアの開け閉めなど、生活のあらゆる場面で介助を必要とする。

 「2日に1度来てる」宜野湾市の「パイプライン・コーヒー」のスタッフはそのあたりを心得ていて、彼の日常をカバーしている。カフェの裏手にある自宅では親が介助を担っている。

行きつけのカフェで、口を使ってタブレット端末に描画する宮城恵輔さん=3月26日、宜野湾市大山のパイプラインコーヒー(ジャン松元撮影)

俺みたいになるな

 俺みたいになるな、と身体をさらして強いメッセージを発したテレビCMを覚えているだろうか。飲酒運転事故で「障がい」を負ってしまい、人生そのものが大きく変えざるを得なかった自分のありようを包み隠すことなく。

 「誰しも社会の一員でありたいと思っていると思うんです。沖縄は飲酒運転が多いし、その結果について身をもって伝えられるのは俺だと思ったんです。飲酒運転の数を減らせることができるはずだと。事故に遭ってリハビリしながら、だんだんそう思うようになった。何か自分にもできることを見つけたいと思ったんです」

 現在は、飲酒運転根絶アドバイザーを県警から託されている宮城さんが、飲酒運転が原因でオートバイの転倒事故を起こし、一命は取り留めたが脳挫傷を負い、身体の重要な機能を失ったのは2005年のことである。

 友人たちが誕生日を祝うパーティーをクラブで開いてくれて、宮城さんはオートバイにまたがって参加した。楽しくて泥酔した。しかし、帰宅するために再びオートバイにまたがったのだ。交差点をユーターンするまでは記憶がある。「いま思うと傲慢(ごうまん)で自信過剰で人生をなめてましたね」と言うが、そこから1週間の記憶がない。あとになって聞かされたのは、米軍基地前の緩やかなカーブを直進、ふらついて緑石に乗り上げてしまい、転倒したようだ。ヘルメットが割れるほど頭を打ち、基地フェンス前の排水溝の柵にぶつかって、右肩が落ちそうになるほど深く断裂してしまった。意識が戻った時は病院のベッドの上だった。

 「目が覚めた直後には、自分の体にまひが残っている! 腕が動かない! なんて思ってもみなかったんですが、腕神経叢(わんしんけいそう)損傷による右上肢全麻痺(まひ)、事故で頭を打って脳挫傷となり後遺症で左半身麻痺になっていました」

 バイト先で客として再会した中学の同級生と結婚。娘も授かっていたが、今後、終わりのない介助生活の負担を考え、離婚手続きをとった。

表現者を目指す

自宅からカフェまで歩いて通う宮城恵輔さん=3月26日、宜野湾市大山(ジャン松元撮影)

 両腕は動かない。医療用ではない、スケートボード用の手首プロテクター(リストガード)を左手だけに装着して、手首が自然に内側に湾曲してしまわないように固定をしている。

 「パイプラインコーヒー」の、街並み越しに海が垣間見えるテラス席で、口にタッチペンをくわえ、スマホでメールのやりとりをしたり、タブレットに絵を描いたりするのが彼の日常だ。スマホやタブレットは専用の台座に固定、タッチペンもガラスのコップに店のスタッフがいれてくれる。何も宮城さんが言わずとも店のスタッフはそういった環境を整えたり、注文すれば飲み物を運び、たばこをくわえさせ、火をつけたりもしてくれる。

 「飲酒運転根絶アドバイザーという活動を始めてCMに出させてもらったり、あちこちの学校や企業で講話をしたりしているなかで、沖縄県内でいろいろなクリエイターと知り合うことができた。その影響もあって、俺も身体の機能と付き合いながら、何か表現したいなあと思うようになったんです」

 いまはタッチペンでタブレットに絵を描くことに熱中している。コロナ禍の第1波のときぐらいから表現者としてプロを目指すことを意識するようになった。沖縄のどこかなつかしい風景を独自の色使いで描いていく。「急にイメージが降りてくるんです。事故に遇ったときのイメージはあんまりないんですが、浮かんでくるイメージはどうしても暗いかんじで、ゾンビ映画の終末世界みたいなもの。だから、せっかく沖縄にいるのだから明るい色使いを意識してる」そうだ。つい最近、パラリンアーティストの絵画を社会とつなぐウェブサイトに「両手不自由」者として正式に登録した。

 「飲酒運転根絶の講話は交通費ぐらいしか出ないので、創作活動で生きていけたら、せっかく死なずに生きのびたので、俺だけにできることを試してみたいという気持ちです。障がいというのは能力だと思っていて、勉強しても手にはいるものではないですよね。事故の日は第二の誕生日だと思ってます。この体になって一人では生活できないから、助けてもらうだけじゃなくて、発信したいと思った。運命というのがあるとするなら、障がいを乗り越えて、誰かを勇気づけることかな」

 障がいを負ってから社会の風景の見え方は変わりましたか。そうぼくが質問すると、「事故前と違って見えますね。健常者の人たちがサーカスみたいに動いているように見えたんです。自分は走ることもできないから、健常者の人の動きってすげえなって」と宮城さんは答えた。サーカスか。確かにそうかもしれない。

ゼロに近づける

 これは俺の気のせいかもしれないけれど、と断ったうえで、「兄の結婚式で親族席に座っていたんですが、あとで観たら、結婚式場のビデオに俺だけいっさい映っていなかったことがありました。俺は実の弟なのに。障がい者を映りが悪いと、式場のビデオ担当のスタッフが俺を外したんじゃないって思ってしまって。無意識のなかの差別意識ともろに直面しました」と真顔になって話した。

 今後はやっていきたいことがたくさんある。その一つは、障がい者の視点を取り入れた建築物などの「ハード面」を作るときのコンサルタントだ。

 「たとえば、建物を建てるきにリアルなクルマ椅子ユーザーの観点や、視覚障がい者や聴覚障がい者、俺みたいに両手が使えない障がい者、いろんな障がい者がいて、そういう人の使い勝手はどれぐらい考えられているの?って思うんです。ハード面を整えることによって、ソフト面もだんだん進歩していくと思う」

 飲酒運転を完全になくすことは無理かもしれないけど、減らすことはできると思う。ゼロに近づけることはできる。俺みたいになりたくないだろっていうことですよね―宮城さんはそう言って、「たばこに火をつけてもらっていいすか?」と笑った。

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

みやぎ・けいすけ

 1984年宜野湾市大山生まれ。幼い頃は引っ込み思案で人見知り。中学・高校と「普通の恵まれた生活」を送り、専門学校に進学。その後は決まった就職内定を断り、地元の居酒屋でアルバイトをしていた。2005年に飲酒運転で自損事故を起こし大けが。19~20年に野村総研が主宰するイノベーションプログラムに参加した。飲酒運転根絶アドバイザーとして学校や企業、各種団体等で講話を実施する活動を続けている。電子メールのアドレスは19uyama84@gmail.com

 

 

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。