島の風、帆に受けて歌う 父母のDNA意識して 玉城千春<新・島唄を歩く>


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 1950年代末より起こった民謡ブームは、1960年代後半から70年代の復帰、海洋博にかけて全盛期を迎えた。事の善しあしはともあれ、ベトナム戦争と日本復帰は沖縄音楽に大いなる刺激を与えた。Aサインバーと民謡クラブ。民謡クラブは復帰を前後して海洋博までに、本島だけでも100軒以上は存在し、繁盛した。歌い手たちは夜明けまで3軒4軒の掛け持ちは当たり前という激忙の時代。玉城千春は、そんな時代に、民謡歌手であった両親の三線を子守歌に育った民謡歌手だ。

精力的に三線ライブ活動に取り組む様子などを語る玉城千春=5月、糸満市((C)K.KUNISHI)

 小浜 久米島出身?

 玉城 生まれたのはコザ(沖縄市)。3歳の時に久米島へ。

 小浜 両親はレコードも出している民謡歌手?

 玉城 はい、最初は久米島出身の山川徳一さんの民謡クラブ「乙女」で昭和41(1966)年に仕事した。

 民謡クラブの時代

 1961年、喜納昌永(1920~2009)は浦添市屋富祖のクラブ「美人座」と契約し、民謡ショーを始め、翌年、那覇市桜坂のクラブにも進出した。「民謡クラブ時代」の幕開けである。60年代後半になると、コザを中心に民謡クラブは大いににぎわうようになり、やがて雨後のたけのこのように全島的に乱立するようになる。

 小浜 両親は民謡するために沖縄へ?

 玉城 父は12人兄弟の長男で、冬は南大東島でサトウキビ作業、夏は本島でさまざまな職に携わり、夜は民謡のステージに立った。母は高校卒業とともに山川徳一先生(喜納昌永の弟子)から誘いを受け民謡の世界へ。

 玉城千春の父母・稲嶺盛郎、啓子は同郷の故山川徳一の経営する民謡クラブ「乙女」にて歌う。その後、山内昌徳の元で学び、民謡レコードをリリースし、職業歌手として数々の民謡クラブにて歌うなど精力的に活動した。

 小浜 それから久米島に帰った?

 玉城 はい。また戻るつもりだったみたいだけどそのまま久米島に。

 小浜 久米島で紹介したい名所は?

 玉城 黒石森城(くるしむいぐしく)。うちの真謝という集落の昔の港なんです。古典「黒石森城節」の歌碑もあるんですよ。

 

 稽古を重ね

 チョウが翅(はね)を広げたような形をした島・久米島は那覇から西に約100キロ、面積は59・63平方キロで、沖縄本島、西表島、石垣島、宮古島に次いで5番目に大きな島。旧火山島でありながらサンゴ礁の島でもある。ジャーナリスト・宮城鷹夫は、久米島随一の絶景として、黒石森城の山と比屋定バンタを掲げる。「詩が育ち、歌が生まれるにふさわしい地形である」(「久米島『琉歌・そぞろ歩き』」)。「黒石森城」は真謝泊の背後にある山で、城址ではなく御嶽である。

 ♪黒石森城 風のもとてもの

 明日になる御風(みかじ) 今日(きゆ)にたぼり―黒石森城節―

 黒石森城の風は風の元であるから、明日、吹くはずの順風を今日ください、と風まかせの帆船の安全を願う思いが込められている。

 小浜 高校卒業後は那覇に出た?

歌三線を披露する玉城千春=5月、糸満市((C)K.KUNISHI)

 

 玉城 ちょっと岐阜県でバスガイドをしました。戻ってきて那覇の国際通りの民芸品店で勤めながら、三線一曲弾けたら格好いいなあと思い始めたんです。ちょうど全国的な沖縄音楽ブームが起こり始めた頃。父に三線やりたいと電話したら、すぐに一丁送ってきた。

 千春は父の紹介で、久高友吉民謡研究所に通うことに。当時住んでいた寄宮から原付バイクで、西原の稽古場に通った。5年間楽しく一生懸命やっていたが、組織の分裂再編の問題が起きたりして、辞めざるを得なくなり「すっぱりやめました」と千春は笑った。

 小浜 また始めた?

 玉城 久米島の後輩から声かけられたりして、国際通りでライブをやるようになった。

 2軒3軒はしご

 時は全国的沖縄ブーム。映画やドラマ、音楽ばかりではなく、ゴーヤーチャンプルーなどの郷土料理までもが、長寿食として注目を浴び、沖縄料理店が日本各地に軒を連ねていく。

 かつての民謡クラブ全盛のように、民謡ライブ居酒屋が国際通りを中心に広がっていった。そんな時代の波を感じた千春は、子育てしながら両親の歩んだような多忙な三線ライブ生活へ足を踏み入れる。

 夕方の早い時間は国際通りの居酒屋ライブ、夜はちょっと離れた民謡クラブへ2軒3軒とはしごした。特に女性歌手は引っ張りだこで「夫の理解があったからできた」と千春は振り返る。一昨年にCD「想いのまんま“千巴琉”」(オフィスHANAZUMI)をリリースし、ますます脂が乗っている。

 小浜 久米島は常に意識している?

 玉城 稲嶺盛郎、啓子の娘であるという、誇りというか、DNAが受け継がれているという気持ちがどこかにあるのかな。

 これからもFMラジオ番組や、自ら率いるユニット「はなずみ」「ちんだみーず」でのライブ活動、そして久米島からの若い子の芸能活動をサポートしたい、と千春は力強く語った。

(小浜司・島唄解説人)


文学的な琉歌の恋歌

本部ミャークニー(ナークニー)

一、真下地(ましちゃじ)ぬくびり

  大堂原若地(うふどうばるわかじ)

  黒山(くるやま)ぬ下(しちゃ)や

  伊野波(ぬふぁ)と満名(まんな)

一、満名(まんな)から伊野波(いぬふぁ)

  流りやい浜川(はまが)

  遊(あし)びする泉河(しんが)

  花(はな)ぬ屋比久(やびく)

一、遊(あし)でぃウフタ原(ばる)

  戻(むどぅ)るユナグシク

  暁(あかちち)ぬまひやい

  港(んなと)わたい

一、渡久地(とぐち)から登(ぬぶ)てぃ

  花(はな)ぬ元辺名地(むとぅひなじ)

  遊(あし)び健堅(きんきん)に

  恋(くい)し崎本部(むとぅぶ)

 

~~肝誇(ちむぶく)いうた~~

 玉城千春の母・啓子は、本部出身の山里ユキの大ファンで、本人とも交流がある。母と声質も似ている「本部ナークニー」を千春は幼い頃からよく耳にしていた。2012年、千春は「第9回本部ナークニー大会」(同実行委員会主催)に応募。電話越しに母からアドバイスをもらい出場した。そして見事に最優秀賞を受賞。翌年の第10回記念大会には娘に説得された母が出場した。

 2013年4月25日付の琉球新報には「娘・母で連覇 本部ナークニー大会」の見出しがあり「最優秀賞に稲嶺啓子さん=久米島町」とある。「娘に先生になってもらった。優勝できて本当にうれしい」

 上記の歌詞は「本部ミャークニー」本歌とされるもの。「ナークニー」は本来、遊び歌、道行歌の即興歌として生まれたものであるから本歌とはならないだろうが、ここには「真下地」や「若地」「黒山」など今では見当たらなくなった地名が多数登場する。またそれらがリズミカルに歌われる。本部町の自然と風土を歴史的に、また文学的な琉歌としての恋歌がそこに在る。