「この戦に勝ち目はない」 小隊長からの離脱〝命令〟 15歳で義勇隊・中本信一さん<国策の果て>2(後編)


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1945年5月、米海兵隊撮影。米軍が「シュガーローフ・ヒル」と呼び、中本さんらの部隊が米軍と熾烈な戦闘を繰り広げた一帯が写る。手前にあるのは日本軍の47ミリ砲。激しい爆撃で木も残らず「沖縄戦で最も血なまぐさい戦いが繰り広げられた場所」と言われる(県公文書館所蔵)

 沖縄戦では戦況の悪化と共に、防衛隊などのように召集手続きを経ず、法的根拠もないまま、多くの民間人が「根こそぎ動員」された。根こそぎ動員の象徴の一つとされるのが「義勇隊」だ(沖縄県史各論編6)。1945年3月、当時15歳の中本信一さん(91)は義勇隊員として、地元の玉城村(現南城市)の奥武島に駐屯していた部隊に配属された。17歳未満の動員は軍と県、警察を挙げて行われた。

 2月15日、県知事をトップとする大政翼賛会沖縄県支部を主体、県警察部を推進役に全県下で義勇隊が結成されていた。市町村や自治会で動員が進められた。

 玉城村でも結成され、隊員らに軍服、戦闘帽、地下足袋が支給された。中本さんは憧れの軍服を身に付け、陣地構築や魚雷を持って戦車に突っ込む訓練に明け暮れた。中本さんは義勇隊で共に従軍した故嶺井幸信さん=当時15歳=と連名で玉城村史や字誌に手記を寄せている。厚生省が71年に作成した「独立混成第15連隊留守名簿」には、嶺井さんは軍属と記されている。

 45年4月下旬、中本さんの部隊に首里周辺の前線に進撃するよう命令が下った。義勇隊も手りゅう弾と竹やり、米軍戦車に自爆攻撃するための「急造爆雷」を背負い、従軍した。

 真和志村(現那覇市)に入ると、米軍の激しい砲撃が襲った。奥武島から一緒に従軍した義勇隊の同級生が即死したが、遺体を埋める余裕さえなく先を急いだ。

 中本さんの部隊も真嘉比の丘の上で迫撃砲や機関銃で交戦した。義勇隊に与えられた任務の一つに、夜間に陣地までの弾薬を運搬することがあった。照明弾が絶えず打ち上げられ、弾が飛び交う中、弾薬を運んだ。

 「もう死ぬ。こっちで死ぬ」。死を幾度も覚悟した。

 最前線で米軍が投下した標識の旗を取ってくることや、戦車が来たら急造爆雷での攻撃も命じられた。

 やがて米軍が激しい火砲で攻勢を強め、部隊は後退した。その日の夕方、日本兵の小隊長が中本さんと嶺井さんを呼び出し、告げた。「この戦に勝ち目はない。君たちはこれ以上軍と行動を共にしなくてもいい。親の元に帰れ」

 部隊は全滅した。「帰れ」と言った小隊長も戦闘で亡くなった。沖縄戦で日本軍は住民にも徹底的に死ぬまで戦うことを強いた中、小隊長は中本さんら少年2人に戦線から離脱するよう命じた理由について明かさなかった。「もし小隊長が『帰れ』と言わなかったら死んでいた。何にも言わなかったが、おそらく生きていてほしいと思ったんだろう」。取材で振り返った中本さんは目に涙をためながらつぶやいた。
 (中村万里子)