平和メッセージ「私たちに託されたもの」首里高・重田真妃さん(全文)


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 沖縄県平和祈念資料館は11日、県内の小中学生から募集した第31回「児童・生徒の平和メッセージ」作文部門に、首里高校2年の重田真妃さんの作品「私たちに託されたもの」を選んだ。作文部門には328点の応募があった。重田さんの作文全文を紹介する。慰霊の日の沖縄全戦没者追悼式で朗読される「平和の詩」には、宮古島市立西辺中学校2年の上原美春さんの作品「みるく世(ゆ)の謳(うた)」を選出した。追悼式パンフレットに掲載する図画には、中城村立中城中学校2年の仲栄真花さんの作品「受け継ぐ想(おも)い」を選んだ。

沖縄陸軍病院南風原壕群20号

私たちに託されたもの/重田真妃(首里高2年)

 

 私の住む南風原町には、全国で初めて文化財に指定された戦争遺跡がある。陸軍病院壕群。私は平和学習のため小学生時代、中学生時代の二度に渡ってここを訪れた。壕の中は、暗く、狭く、息苦しく感じた。ほんのわずかな時間しかいなかったが、この中で、たくさんの負傷兵たちが苦しみ、助けを求めて叫んでいたのだと想像した。そして、最も私の胸を締め付けたのは、そんな負傷兵の世話をする、私とあまり年齢の変わらない女学生たちの存在だ。

 私の家の隣に住んでいる津波古のお婆(ばあ)さんは、ひめゆり学徒隊として、看護補助要員に動員された一人である。津波古さんたち女学生の仕事は、けがをした兵隊さんたちの手当や食事などの世話だ。だが、手当とは名ばかりで、薬などもなく、麻酔なしで手術も行われた。二日に一回替えていた包帯も三日に一回、週に一回となっていき、最後には傷口から蛆(うじ)をとってあげるだけだったそうだ。

 「水~。水~。」

 「学生さ~ん。おしっこ~。」

 地獄のような日々の中、津波古さんたちは、兵隊さんたちを助けてあげたい、元気にしてあげたい一心だったという。食料や水の運搬もひめゆり学徒隊の重要な仕事の一つだ。梅雨の時期、陸軍病院壕から炊事場までの雨でぬかるんだ泥道を、大量の砲爆が降り注ぐ中、二人一組で醤油(しょうゆ)樽に詰めた食料を担いで運んだそうだ。それは、本当に命がけで過酷な作業であり、私は想像もできない程の悲しみや苦しみを体験し、恐ろしく悲惨な光景を見たのだと思う。

 私の祖父も沖縄戦の体験者の一人だ。祖父はその当時六才。九人家族で、雨のようにふる艦砲射撃の中、家族で逃げ回った。九人いた家族も、祖父と祖父の父、祖父の兄の三人だけになり、その二人ともはぐれ、一人で逃げ回ったそうだ。

 そんな祖父が語った言葉で印象に残っている言葉がある。それは、「戦争中一番恐ろしかったのは、爆撃でもアメリカ兵でもない。人が人でなくなったことだ。」というのだ。逃げる途中、砲弾に倒れた死人の側を通っても恐怖心も湧かず、今まで共に過ごしてきた大切な人の命が突然奪われても、悲しむ余裕もない。まるで、人間としての感情が麻痺(まひ)しているかのようだったという。津波古さんたちがいた陸軍壕内でも、足手まといになる重傷兵には、青酸カリ入りのミルクが配られ、たくさんの人が命を落としたと聞いた。

 人間は、なぜこうも、愚かで醜く、残酷になれるのか。戦争は、人間の一番の醜い部分を引き出してしまう。いや、優しさや思いやりや人間としての美しい部分まで奪ってしまうのかもしれない。

 私たちは、当たり前に毎日ご飯が食べられる。当たり前に学校に通い勉強ができる。当たり前に家族や友達と笑い合い、語り合うことができる。話を聞いた私の祖父や津波古さんは、あの沖縄戦の中、そんな「当たり前」のことが何一つ許されなかったのだ。しかし私は毎日の「当たり前」の日々の中で、「今、平和だな、自分は幸せだな。」と、特に思ったことはない。たぶんそれは、「当たり前」のことが「当たり前」でなくなった時のことを知らないからだと思った。戦争を知らない私たちにできること、それは「当たり前の毎日」に感謝することだ。

 戦後七十六年、戦争を体験した方がどんどん減っていく。昨年、津波古さんは亡くなった。津波古さんは、ひめゆり資料館等で戦争の語り部として、自分の体験を語ってきた。私は幸運にもこの貴重な体験を直接訊(き)くことができた。私たちは、生の声を通して「戦争は恐ろしい」とぞっとし、「二度としてはならない」と強く思うことができた。しかし、年々戦争体験者は高齢化し、こうした体験を訊(き)く機会が失われているのも現実だ。

 戦争が遠い歴史となってしまう未来の子ども達は、戦争を恐ろしいものだと感じ、ぞっとするだろうか。戦争は二度と起こしてはならないと、強く心に誓うことができるであろうか。それは、今を生きている私たちにかかっている。戦争の悲惨さ、命の尊さを、戦争を体験した方たちの平和を願う思いを、語り継ぐことだ。そのためには一つでも多くのことを学び、感じ、考えて未来へ繋(つな)ぐ、それが未来のそのまた未来の平和を作るのだ。

 私の祖父の姉もひめゆり学徒隊として動員され、短い生涯を終えた。ひめゆり資料館の壁に飾られた写真は、何も語ってはくれない。でも、写真の前で私は誓う。「平和」とは、願うものではなく、自分たちが日々守り育てていくもの。この気持ちを大切に、未来に思いを繋(つな)いでいきたい。それが私たち戦争を知らない者の責任、使命だと思う。