「みな駆り出された」 別部隊に配属の姉、戦死・上原安子さん<国策の果て>5


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「子や孫に戦争をさせたくない」と語る上原安子さん=1日、糸満市大里

 動員の呼び掛けは突然だった。1945年、高嶺村大里(現糸満市大里)。当時16歳の上原安子さん(92)=糸満市大里=が普段通りに父や姉と畑仕事をしていたところに、婦人会長と青年会長が訪れて告げた。「20歳までの女子青年は、公民館に集まるように」

 姉と大里公民館に向かうと、大里や兼城村座波(現糸満市座波)などに住む、15歳から20歳までの女性約40人が集まっていた。その場にいた日本兵が、女性たちを4~5人ずつに分け、所属する部隊を指示した。法的根拠のないまま、民間人である女性たちは戦場に「根こそぎ動員」された。

 上原さんは軍馬の餌やりを指示された。近所の幼なじみも一緒だった。3つ年上の姉は別部隊に配属された。「徴用みたいだったよ。でも上からの命令は聞かないといけないからね」

 当時、大里には第24師団歩兵第32連隊本部と、工兵第24連隊が駐屯していた。琉球政府が戦後、各市町村住民への聞き取りをまとめた「軍属に関する書類綴(つづり)」によると、45年1月から3月ごろにかけて、大里やその周辺の女性たちは、区長などを通じて、炊事婦や看護婦として動員されている。上原さんの動員もこの時期とみられる。

 上原さんが配置された場所は、第32連隊の指令本部があった大城森(ウフグスクムイ)の壕のそば。そこには屋根のついた木造の厩舎(きゅうしゃ)があり、軍馬が6~7頭いた。日中は馬を世話し、夜は家族と身を寄せていた大里の壕に戻る生活が始まった。

 毎日餌になる草を座波の畑まで取りに行った。両手いっぱいになるまで刈った草を束ね、厩舎に戻る。任務が終わる午後5時まで何度も繰り返した。時には芋を煮て馬に与えた。空襲が来ると、日本兵と馬を大城森の壕の中に避難させた。

 同じ隊の女性たちの中には、「隊長当番」として、隊長の身の回りの世話をしている人も2~3人いた。炊事婦として働く姿もあった。「あの時はみんな駆り出されていた。しょうがないって思ってたよ」。役目を懸命に全うした。

 日本軍が米軍と激しい攻防を繰り広げていた45年4月下旬、馬は部隊とともに首里の前線に向かった後、帰らなかった。「糸満市史資料編7 戦時資料下巻」によると、米軍は6月上旬に大里一帯に攻め入り、15日には大里を占領した。上原さんは米軍の侵攻前後に家族と離れて、部隊とともに高嶺村真栄里(現糸満市真栄里)のウフ壕に移動した。

 やがて部隊の上官は「南に移動するから、最後に家族にあいさつをしておいで」と告げた。大里の壕にいた家族に別れを伝えウフ壕に引き返すと、部隊の姿はなかった。「まだ子どもだったから、帰してくれたのかもしれない」。その直後、米軍に捕まった。

 公民館で別の部隊に配属された姉は、どこで戦死したのか分かっていない。父も爆撃で命を落とした。戦後は幼い弟妹を抱えながら懸命に働いた。「戦争は家族がばらばらになる。子や孫に絶対戦争をさせたくない」。力強く訴えた。
 (嶋岡すみれ)