姉の名に触れ涙…「来られなくてごめんね」83歳で平和の礎を初めて訪問


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初めて平和の礎を訪れ、刻名された姉の名をなでる玉城トミ子さん=23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園(大城直也撮影)

 沖縄戦の組織的戦闘の終結から76年となる「慰霊の日」に、平和の礎を初めて訪れた南城市の玉城トミ子さん(83)は刻銘された姉・上原吉子さんの名前に触れると、人目もはばからずに泣いた。「今まで来られなくてごめんね、いつも見守ってくれてありがとうね」。雨が降る中、何度も同じ言葉を口にした。

 一つ年上の吉子さんは1945年6月、現在の糸満市国吉で砲弾のかけらが頭に直撃して命を奪われた。「親孝行で優しかったのに」。その死を7歳で目の当たりにした玉城さんの悲しみは今も癒えない。

 沖縄戦当時、小禄村安次嶺に暮らし、44年の10・10空襲も経験した。「逃げる時、姉はみんなの荷物を一人で持ってくれるなど優しい人だった」。米軍上陸後、国吉に避難し、日本兵もいる民家に家族や親類と身を寄せた。

平和の礎を初めて訪ね、刻まれた姉の名前に涙を流す玉城トミ子さん=23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 吉子さんが命を奪われた日、照明弾に気付いた直後に砲弾が襲った。玉城さんの右胸の下にも、砲弾のかけらが貫通した。吉子さんの遺体を泣く泣く民家近くに寝かせたまま、北部に向けて避難した。数年後、母親が吉子さんの遺体があった場所から遺骨を持ち帰り、供養したという。

 玉城さんはこれまで、交通事故の後遺症や病などもあって、平和の礎に足が向かなかったという。今月22日、娘の小谷幸代さん(38)が礎を訪れ、吉子さんの刻銘を見つけ、母の玉城さんを誘ったという。

 23日、戦争体験を語りたがらなかった玉城さんのあふれる思いを聞き、小谷さんも涙した。手を合わせた後、玉城さんは「苦しい事もあったけど、姉が見守ってくれたから乗り越えられた。思いを伝えられて良かった」と、少し晴れやかな表情を見せた。 (嘉陽拓也)