風化させない 宮森小学校米軍ジェット機墜落62年 語り部だった亡き母思い


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語り部だった母を振り返り、涙ながらに語る遺族代表の富田なおりさん=30日、うるま市石川の宮森小

 「もし生きていたら」―。宮森小米軍ジェット機墜落事故で叔母にあたる久高徳子(のりこ)さん(当時2年生)を亡くした富田なおりさん(41)=うるま市石川=は、亡き叔母の姿を想像することがこれまで何度もあった。2013年に亡くなるまで事故の語り部として活動していた母の久高律子さん(享年63歳)が、空を見上げるたびに米軍機の墜落を心配していたことも忘れることができない。「平和な今日も同じことが起こらないとは言い切れない」。かみしめるように語った。

 なぜ母はふくよかだったのか、長年の疑問だった。後に事故が背景にあることが分かった。機体の下敷きとなり犠牲となった徳子さんは、遺体の損傷が激しく本人確認が難しかったため、胃に残る朝ご飯の残留物から身元が判明したという。いつも一緒にいた、仲の良い妹を亡くした後、母は食欲のコントロールができなくなってしまった。亡くなるまで睡眠障害も患っていた。

 律子さんは富田さんの前では事故の話はしなかったというが「語り継ぐことが使命だと感じたのだろう」。石川・宮森630会が09年に設立されると、語り部となった。亡くなる直前まで活動を続け、携帯電話にも、活動についてのやり取りが残っていた。

 「亡くなったら、徳子おばちゃんに会えるとうれしそうにしていた。私も会ってみたかった」と富田さん。こみ上げる涙をこらえるように語る。叔母の命を奪い、母を苦しめた米軍機は変わらず頭上を飛び交う。

 母が亡くなった13年から慰霊祭への参加を決めた。新型コロナウイルスの感染拡大を受けた昨年以外は毎年足を運び、ことしは初めて遺族代表としてあいさつもした。「事故のことを詳しく知る勇気はまだないが、慰霊祭への参加が語り継ぐことにつながる」(新垣若菜)