親の気持ちよく分かる 平敷屋東エイサー「ひめゆりの唄」記憶していた西野さん


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「ひめゆりの唄」を歌った元踊り手の西野ハルさん(左)と池間シズ子さん=3日、うるま市勝連平敷屋の平敷屋公民館

 1960年前後にうるま市の平敷屋東青年会のエイサーで使われていた「ひめゆりの唄」が、ひめゆりの塔に供えられた琉歌を元に制作されたものだとこのほど確認された。沖縄戦で子どもを亡くした親が詠んだと思われる琉歌からは、子を戦争に送り出した後悔と平和への願いが感じ取れる。琉歌を記憶していた西野ハルさん(86)は「琉歌を書いた親の気持ちはよく分かる」と語る。

 西野さんは、平敷屋で生まれ育った。沖縄戦では防衛隊に動員された父を失った。「島尻に遠征したようだが、どのように亡くなったかは分からない」という。送り出した家族の死の全容は分からず、ただ安寧(あんねい)を願う境遇は、「ひめゆりの唄」の琉歌を詠んだ親の境遇と重なる。

 平敷屋エイサーは明治以前から南北(大正13年=1924年から東西)に分かれて、太鼓打ちの技を競い合ってきた。「ひめゆりの唄」が平敷屋東青年会のエイサーに取り入れられた1960年ごろは、受け継がれている曲目とは別に毎年3曲ほど新曲のエイサーを披露していた。相手にばれないように新曲は踊られる3日前に発表され、太鼓打ちは夜中の2時、3時までかけて踊りを作ったという。

 平敷屋東青年会で踊り手だった西野さんは「いつも歌から覚えさせられた。今でも平敷屋エイサーの歌は全部覚えている」と懐かしんだ。

ひめゆりの唄QRコード

 QRコードを携帯のカメラで読み取って表示されたアドレスから、西野ハルさんと平敷屋東青年会の踊り手だった池間シズ子さんが歌う「ひめゆりの唄」が聞けます。

 平敷屋エイサー保存会が「ひめゆりの唄」詠み手について情報を求めています。情報提供は保存会事務局(電話)098(978)2231。