八重山民謡の奥深さに挑む 師・大工哲弘を追いかけて 伊藤幸太<新・島唄を歩く>


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 1990年代、「りんけんバンド」や「ネーネーズ」の出現によってもたらされた沖縄音楽ブームは三線音楽の裾野を大いに広げ全国的に認知させた。その担い手として忘れてはならないもう一人のパフォーマーがいる。大工哲弘だ。ポップミュージックだけではなく、あらゆるジャンルの音楽を八重山という独自の、民謡のメッセージ音楽に変換して内外に発信し続けている。その姿に感化され、追い求めている歌い手がいる。伊藤幸太だ。

師匠の大工哲弘との出会いや関係性などについて語る伊藤幸太=沖縄市((C)K.KUNISHI)

 小浜 出身は?

 伊藤 東京都町田市。1988年生まれです。

 小浜 大都会ですね?

 伊藤 そんなに大都会じゃなかったけど、通った小学校は世田谷区で都会でした。

 伊藤幸太は幼い頃から、盆踊りや神社の秋祭りでの伝統芸能が好きで、よく家でおかめやひょっとこの面をつけて踊っていた。保育士だった両親が和太鼓をやっていたこともあり、音楽的目覚めは結構早かったという。

 小浜 三線音楽との出会いは?

 伊藤 小学校6年の時、総合学習の一環で「沖縄」というテーマで、平和と文化を学んだ。沖縄への修学旅行で「エイサー」を見て、三線格好良いなあと思い、独学で始めたんです。

 

文通の始まり
 

 幸太は、沖縄出身の学生が暮らす「南灯寮」を訪ねて、カンカラ三線の作り方を教えてもらったりして交流した。ちょうどその年(1995)米兵少女暴行事件という痛ましい事件が起こり、大工哲弘が三線で「沖縄を返せ」を歌い、東京の新聞に載った。そのメッセージにシンパシーを感じた幸太は、新聞社に「この人と会いたい」と連絡を取ろうと試みた。直接は教えてもらえなかったが、手紙を仲介してもらった。「そこから文通が始まったんです」と幸太は照れた。

 小浜 すごい行動力。

 伊藤 返信が来たということに感激しましたし、感動したんです。手の届かない存在の人から手紙が来たので、それに惹(ひ)かれたのかなあ。先生が東京へいらした時に、会いに行きまして、いろいろな質問をしたんです。それからライブを見たり、先生のCDを聴いたり、八重山民謡というより、大工哲弘に没頭していくというか。

 

歴史の重み
 

 当時の大工哲弘の活動といえば、まさに「ハンパない」くらい所狭しと動き回っていた(今でも?)。沖縄を飛び越えて日本ばかりではなく、ヨーロッパ、アフリカ、南米などでの公演。高橋竹山や他の民謡歌手のみならず、ジャズ、ロック界のミュージシャンとの共演など、広すぎる幅で活躍しながらも、見ず知らずの小学生の手紙に返事を書くというから、運命を感ぜずにはいられない。

 小浜 それで弟子入りということですね?

 伊藤 文通も続けて三線も続けていたし、高校卒業して「弟子入りしたい」と親には言えないものですから「沖縄の大学に進学したい」と沖縄国際大学に入学したんです。

 大学では琉球文学を専攻し、八重山の抒情歌(じょじょうか)を研究し、また先輩、仲間と沖縄芸能サークルを立ち上げて活動した。

 小浜 弟子入りして稽古はどうでした?

 伊藤 すぐに「鷲ぬ鳥」をやらされて、発音がすごく難しくて、歌の意味も勉強すればするほど、奥深くて、苦労してます。

 小浜 八重山民謡を意識するわけですね。

 伊藤 八重山の歴史の重みを知らないと、意味は理解できないし、歌の中の細かい部分も兄弟子達に厳しく教えられ、かわいがってもらいました。

 小浜 ヤマトンチュが勉強するにあたって、後進へのアドバイスなどありますか?

 伊藤 うちなーぐちというか、私で言えば八重山の言葉に今でも苦労してます。やっぱり大工哲弘師匠をどれだけ突き詰め、近づけるのかなとは思ってます。

 

沖縄の父
 

「自分のような人にしか歌えない八重山民謡を歌いたい」と話す伊藤幸太=沖縄市のキャンパスレコード((C)K.KUNISHI)

 幸太は言う。ヤマトンチュであることは変えられない。「ナイチャーだけどよく歌っているね」ではダメだ、と。そこを飛び越して、八重山の人にも沖縄の人にも認められて、自分のような人にしか歌えないような八重山民謡を歌いたい、と幸太はキリリとした。

 小浜 イベントで伴奏したりして、実力的にも大工哲弘の右腕として活動している?

 伊藤 私的にも右腕になりたいです。「大哲会」という大工哲弘の歌の会派を発足させまして、その会長を仰せつかっております。

 小浜 CD録音の予定とかは?

 伊藤 第15回「全島トゥバラーマ大会」(2009)に出場し、優勝しまして、「八重山トゥバラーマ大会」に派遣という形で出させてもらった。コテンパンというか、のまれたというか、力を発揮できないまま落ちてしまった。再チャレンジして優勝できたらCDをと考えてます。

 最後に聞いた、「伊藤幸太にとって、大工哲弘とは?」。沖縄の父であり、良い意味でも恐ろしいし、今でも話す時に緊張する存在です。

 (島唄解説人)

 


時、場、歌い手で千変万化

トゥバラーマ 八重山民謡

一、我ぬが生まりや ヤマトやすんが
 トゥバラーマいざば 聴きゆ給り
(私の生まれはヤマトですがトゥバラーマ歌いますので聴いてください)

一、月と太陽とや ゆぬ道通りょうる
 うらとばんとや ぴと道あり給り
(月と太陽は同じ道筋をたどるあなたと私の進む道も一つであってほしい)

~~肝誇(ちむぶく)いうた~~

 やっぱり八重山民謡をやるなら「トゥバラーマ」をしっかり歌いたいし、自分しか歌えない自分だけのトゥバラーマを歌うのが夢だと、伊藤幸太は言う。

 一番目の歌詞は自分で詠んだ詩で、先生にも見てもらい、大事に歌っていきたいという。二番目の歌詞は、月と太陽が同じ軌道で動くと歌うが、八重山民謡をやる前には、そんなこと意識もしなかった。

 まずは大自然を詠い、そしてあなたと私も一緒の道を歩いていけるように頑張りたい。ぐぅーっとくるのだ、と幸太。トゥバラーマとカヌシャーマ、語りかける相手がいる。自分の思いを吐露する相手がいる。いろいろな心情を歌うことができるし、対句表現を駆使して文学的次元まで高めて歌えるところが魅力だと幸太は強調する。

 トゥバラーマとは八重山の古い言葉で「男子の尊称」。女子に対してはカヌシャーマという。言うまでもなく、八重山を代表する抒情歌(じょじょうか)である。時と場所と歌い手によって千変万化するゆえんがこの歌の醍醐味(だいごみ)である。