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取材の自由 「現場入り」は知る権利直結 職業上正当な制限破り<メディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
2016年12月13日に発生したオスプレイの墜落事故で、現場周辺に規制線を設けて県警や報道陣らの行動範囲を制限する米兵=名護市安部

 北海道新聞(道新)記者が旭川医科大学で取材中に、大学職員によって取り押さえられ現行犯逮捕され、捜査が続いている。事前に報道機関に対し取材禁止を連絡した中、構内に入り、会議の様子を無断録音しており、その場で身分を明かさなかったからとされている。

 しかし、社会における「正当な取材行為」をどのように設定するかは、取材・報道の自由ひいては市民の知る権利に直結し、単なる「建造物侵入事件」では終わらない重要な課題を問いかけている。

 

公共性・公益性

 記者の取材は、社会の一般的な法令や慣習と時に異なることがある。それは、読者・視聴者に知らせるべきことを、事件・事故が起きている現場に直接行って、きちんと自分の目や耳で確認することで、責任を持って「いま起きていることを、いま伝える」ことができるからだ。その際、取材対象先に立ち入る行為の少なからずが、相手が嫌がるタイミングであったり、場所や内容であったりする。その結果、相手方に近づくこと自体を拒否されることも少なくない。

 しかしそれに従ってばかりいては、当然「本当のこと」は分からずじまいだ。その場合、どこまで「勝手に」取材をすることが許されるかであるが、一般的には、対象相手や取材場所、報道予定の事象の公共性・公益性と比較して判断し、その理由を説明した結果、それらが社会的に了解されることが期待される。

 危険地取材のように、国が紛争地への渡航禁止を勧告あるいは推奨する場合がある、原発事故に際しては今でも立入禁止区域が設定されている。こうしたルールは一定尊重する必要はあるにせよ、取材の必要性があると判断すれば、公共性・公益性に鑑みて取材をするのがジャーナリストの仕事だ。

 沖縄では日常的に、米軍の事故があると通常の民間地であっても、一方的に規制線が張られ、取材はおろか日本の警察・行政関係者の立ち入りも制限・禁止されることが続いている。官公庁も、気に食わない報道があると一方的に「出入り禁止」措置をとることがあるが、それに粛々と従う記者はいないだろう。抜け道を探して果敢に取材を続けるのが一般的だ。

 このように公的機関の取材制限は、それが法の根拠がある場合であっても、原則として無断立ち入りは倫理上問題とされないし、むしろ制限自体に対してきちんと抗議するなどの対応をしていくべきカテゴリーである。

 

事実報道に不可欠

 

 次には、一般には立ち入りが認められている空間への無許可の取材のための侵入だ。例えば、公園、公共施設、商業施設、あるいは大学などが該当しよう。

 こうした場所では通常、事前に許可を取って取材をすることになるが、緊急性を有する場合、立ち入り先がまさに取材対象で許可をしない(あるいは取材制限をかけている)場合は、公共性・公益性の観点から、無許諾の立ち入り取材が倫理上許される場合が少なくない。ただしその場合には、可能な限り組織的判断を行うなり、行った場合はその必要性を事後的に(通常は報道に際して)、きちんと読者・視聴者に対し説明することが求められる。

 また備忘録のためにICレコーダー等でその場の会話等を録音することも、公的な会議や政治家の発言など、公共性・公益性に鑑み結果的に「無断」であっても取材倫理上は許される場合がありえよう。

 さらにこれが、私的空間(病院や家の中などプライベートな閉じた場所)になると、盗撮・盗聴や潜入取材という領域であって、当然、そのハードルは高くなる。この場合であっても、高度な公共性・公益性があれば許される場合があり、例えばかつて、実力政治家の病状が明らかでなかったとき、自宅で療養中の姿を空撮した写真は、称賛こそあれ社会的非難はなかった。

 いずれにせよ、取材先の都合で取材をするかしないかを決めるのではなく、現場で何が起きているかを確認することが、事実報道のためには欠くことができず、その判断基準は読者・視聴者に説得的な公共性・公益性があるかどうかだ。その判断の結果、知る権利の代行者としてルールを破ることがあったとしても、それは職業上の正当な行為であって、倫理上許容されるし、多くの場合、法的にも許されるべき範囲ということになる。

 残念ながら、社会的な認知として、こうした「特別扱い」を許さない風潮があるし、逆に一部の記者の中には、自分たちが「特別である」といった特権意識から当然視する向きがあり、話がややこしくなっているきらいはある。しかし、こうした「正当」な取材行為に対しては社会的な合意をことあるごとにとっていくこと、また警察等の行政機関は表現の自由を尊重し、形式的な違法を理由とした記者の逮捕(身体拘束)を行わないという謙抑性が求められることになる。

 

今後の重い課題

 

 北海道新聞社は事件の発生翌日の6月23日付朝刊で、逮捕された記者を実名で記事化(その後、オンライン上では削除)、7月7日の朝刊で社内調査報告を掲載し、記者教育が不十分であったと事実上謝罪した。取材規制を破って建物内に入ったこと、無断録音したことも適切ではなかったとしている。こうした対応が、今後の道新記者の取材活動のみならず、報道界全体に影響を与える可能性がある。

 なぜなら、今回の一連の取材活動が「不当かつ違法」なものであったことを、社会全体に認めることになりかねないからだ。その結果、今後は取材されたくないものは「取材禁止」を申し渡し、政治家や官僚はつきまとい取材を違法だと訴えてくるだろう。

 何よりも道新には、不幸にも災難にあった新人記者が「記者として間違ったことはしていない」ということを、明確に示してほしい。このままでは、読者に、取材とは何か、ジャーナリズムとはどういうものかを、説明する絶好の機会を逸してしまったのではないかと思わざるをえない。
 

(山田健太 専修大学教授・言論法)