「久米島戦争記」蛮行、時間の闇に溶かさない<おきなわ巡考記>


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 激しい憤りを文面にも、行間にも漂わせている。吉浜智改さん(1885~1956年)の「一九四五乙酉年日記 久米島戦争記」。このほど発刊された832ページに及ぶ「久米島町史 資料編1 久米島の戦争記録」の収録資料(日記)の一つだ。おぞましい虐殺を続けた日本軍を糾弾し、敗戦という「天誅(てんちゅう)」を日本がなぜ受けたかについても分析する。何度かこの日記を引用した文献で断片的に目にはしていたが、今回「町史」でまとまった形で読み、改めて軍に迎合しなかった人の気骨を想う。

 「6・23」以後8月までに9家族計20人の住民を惨殺した久米島駐留の日本軍は、海軍電波探信隊(隊長・鹿山正兵曹長、約30人)。本来の任務は、沖縄本島・小禄の海軍根拠地隊司令部に米艦船の情報を送る通信業務で、武器は7・7ミリと13ミリの機関銃各1丁、小銃5丁と手榴弾10個、あとは隊長の軍刀とピストルだけだった。しかし、「久米島守備隊」と豪語し、横暴な態度と空威張りで住民をおびえさせ、萎縮させた。

 当時、農業会長だった吉浜さんは日本軍の姿を、こう書く(注、漢字を平仮名にするなど読みやすくした)。

 米軍が久米島に上陸した6月26日。「鬼畜の如き鹿山兵曹長ことだから、むしろ米軍よりも危険率は多いということになり、これに対する対策も考えておかねばならぬ」。この翌日、米軍の指示で降伏勧告状を届けた男性が「スパイ」として射殺された。最初の虐殺だった。その2日後には9人が同じ疑いをかけられて惨殺された。

 7月6日。「鹿山兵曹長、民衆を脅迫す」と見出しを付け、「民衆が山から出て住家に帰れば山に残るのは軍人だけということになり、米軍の掃討には便利である。それで女を連れて逃げ回っている鹿山には、山中人なくしては都合が悪い。もし退山する者は米軍に通ずる者として殺害すべしという宣伝せしめ、下山する者なし」。

 7月9日。「鹿山隊山賊化す」の見出しで「皇軍は完全に山賊と化し民衆の安住を妨害す。ただ自己の安逸をむさぼる鹿山兵曹長、いつまで逃げ回るつもりだろうか」。

 「処刑」に名を借りた殺人は「8・15」後にも続いた。18日、家族3人を惨殺。20日には別の家族7人を殺害。翌日の8月21日。「凶悪は史上永遠に残る皇軍の汚名と言わねばならぬ」。

 9月15日。「日本はなぜ、天誅を受けしや。(1)日本人気質は威張りたがる。特に軍人には包容力なし(2)個人感情に支配されやすく、感情でもって法を支配した(3)官吏も軍人も階級制度が過ぎ、弱者に対する愛に乏しい(4)日本人は格別自己を見る目がないゆえに、自己を責めず他をさばく(5)共存共栄を口にするも、社会徳義心に乏しく他を利益せしむる心がない。弱者を愛する心なき者には勝者たらしめずこれを天誅という」。

 「戦争記」の表紙に、自身の姓「吉浜」をハングルで書いている。吉浜さんは戦前、朝鮮総督府警部として7年間勤務した。久米島に帰島後も再度朝鮮半島に渡り、鉱業に従事しながら、朝鮮の歴史、民俗学に風水、易学を学んだ経験もある。日本統治下で朝鮮民族の文字の使用は禁じられていたが、これをあえて使うことで、同じように皇民化教育で誇りある文化を封じられた沖縄の気概と連帯を示したのか。

 米軍に投降して以後、消息が途絶えていた鹿山隊長の生の声が伝えられたのは1972年3月。「良心の呵責(かしゃく)もない」と開き直って、本土復帰を控えた沖縄の人々に衝撃を与えた。鹿山隊は住民を守らず、圧倒的な兵力の米軍への恐怖と住民への猜疑心(さいぎしん)を隠して「スパイ」呼ばわりで正反対の蛮行を繰り返した。その事実と記憶は消えない。時間の闇に溶け込ませない、「戦争記」である。

 (藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)