思い出ぎっしり!1964年東京五輪 聖火リレーの写真、雑誌切り抜き…当時を振り返る


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1964年の東京五輪の思い出の品を披露する(左から)友江高夫さん、與那覇徳市さん、與那覇清徳さん=6月16日、読谷村渡慶次

 【読谷】東京オリンピック開幕まであと3日―。読谷村渡慶次に住む與那覇徳市さん(78)と弟の清徳さん(74)、友江高夫さん(73)の3人は、1964年の東京五輪にまつわる思い出の品を大切に保管している。当時読谷高2年だった清徳さんと友江さんは、前回の東京五輪の聖火リレーで走者を務めた。コロナ禍の開催に不安はあるとするが、「朝から晩まで応援するよ」(徳市さん)と胸を躍らせる。

 徳市さんが持つのは、「TOKYO 1964」の文字と国立競技場が写った雑誌の切り抜き。どの雑誌かは覚えていないが、五輪開催前に購入し、記念に額縁に入れて保管していた。「最近思い出して探したら出てきたよ。お宝発見さー」と笑顔だ。

 徳市さんは64年当時、いとこが経営する家電店で働いていた。オリンピック前でテレビを購入する人が多く、店は大繁盛。接客やテレビの配送で、弟の清徳さんが聖火リレーを走る姿も見に行けないほど大忙しだったという。

 「店のテレビでオリンピックを見ようと、近所の人が集まった。映画館状態だったよ」と当時の熱気を思い出す。

 当時陸上部所属の清徳さんと、バスケ部所属の友江さんは、自身が聖火リレーで走る写真を大切に保管している。

【左】聖火リレーでトーチを持ちまっすぐ前を向く、当時読谷高2年の友江高夫さん、【右】聖火リレーを走り終えて整列する、当時読谷高2年の與那覇清徳さん(右)(いずれも本人提供)

 清徳さんはトーチを持つ正走者のすぐ後を走る副走者に任命された。「沿道から名前を呼ばれても、今みたいに手を振っては駄目だった。ただまっすぐ、一生懸命に走ったよ」と振り返る。

 友江さんも副走者だったが、途中で正走者が体調不良のため急きょトーチを持つことに。「正走者には申し訳ないが感動した。責任や平和の思いか、トーチは重かった」と話す。

 徳市さんと清徳さんは、沖縄戦でチビチリガマの「集団自決(強制集団死)」で母方の祖父母を亡くした遺族でもある。

 清徳さんは「沖縄は日本で唯一地上戦があった地域だ。オリンピックは『平和の祭典』と言われるが、沖縄は平和への思いは本土と比べて人一倍強いはずだ」と話す。

 徳市さんも、「昔ほどオリンピックは神聖なものではないが、平和の思いは今も変わらない」と語る。「期間中はテレビの前から離れないよ」と笑顔で話した。
 (石井恵理菜)