「甲子園を見て沖縄に帰る」と乗った大阪行き、突然の別れ…きょう日航機墜落36年


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日航ジャンボ機墜落事故で犠牲となった山城榮賢さんの献花台=2013年8月12日、群馬県

 群馬県の御巣鷹山山中で520人が命を落とした日航ジャンボ機墜落事故。那覇市出身の山城榮賢さん=享年35歳=は1985年8月12日、夏の甲子園で県勢を応援するために搭乗していた。山城さんは事故当時、東京都内に在住。「甲子園を見て沖縄に帰る」と義理の弟に話し、たまたま取れた大阪行きのチケットが生死を分けた。事故から36年、山城さんの面影を遺族は片時も忘れていない。

 突然の別れ

 取材に応じたのは義理の弟の新田隆さん(69)=西原町。新田さんは事故当時、東京で仕事をし、山城さんと酒を酌み交わすなど親交があった。7年前に帰沖して警備員の職に就いている。これまでマスコミの取材を避けるようにしてきたが「年々報道が小さくなっている。風化させたくない」と心境が変化した。

 事故が発生した夜、東北に出張中だった新田さんは、妻(65)から「兄の名前がテレビに出ている」と電話を受けた。テレビでは日航ジャンボの報道が過熱していた。搭乗者としてテロップに“ヤマシロエイケン”と映っていた。「そんなばかな」。あまりにも突然の出来事だった。

 翌朝、新田さんは妻と群馬県に向かい、現場付近の藤岡市で対策本部からの知らせを待った。事故から9日後、歯形と指紋が一致したとして、遺体の身元が山城さんだと分かった。新田さんら親族が確かめ、その後で妻に伝えた。新田さんは「全く信じることができなかった」と振り返る。親族全員が突然の別れを受け入れられなかった。

 元球児

 山城さんは真和志中で野球を始め、首里高時代は4番打者を任された。都内の大学進学後もしばらくは野球を続け、自転車と船で沖縄に帰るようなエネルギーあふれる人だった。卒業後は東京で仕事に打ち込み、お盆休みに甲子園球場で県勢を応援してから帰省するのが恒例だった。

 85年は栽弘義監督率いる沖縄水産が2年連続で甲子園に出場し3回戦で鹿児島商工に惜敗した。連日紙面で伝えられる事故の経過と甲子園の盛り上がりは対照的だった。8月15日の琉球新報の社会面(朝刊)は2回戦で勝った沖縄水産の記事の横に、対策本部からの連絡を待つ、新田さんら親族の憔悴(しょうすい)した様子が書かれている。

 フラッシュバック

 事故から四十九日、新田さんら遺族は御巣鷹山に登った。現場だけ山肌がむき出しになり、遺品や残骸が散乱していた。山城さんが好きだった焼き鳥とオリオンビールを添えてヒラウコー(平御香)をあげた。

 それから帰沖するまで毎年、慰霊登山を続けてきた。新田さんは「遺族はいつまでも遺族のまま。苦しみが続く」と話す。新田さんの妻は今でもオスプレイなど航空機のけたたましい音で事故を思い出し、山城さんの姿がフラッシュバックするという。新田さんは「飛行機の事故が沖縄は多い。空の安全を守ってほしい」と訴えた。

 今年も夏の甲子園が開幕し、球児たちが熱戦を繰り広げている。新田さんは「犠牲になった人がいたことを忘れないでほしい」と呼びかける。搭乗者の中には甲子園を楽しみにしていた乗客が複数、いたという。遺族は今夏も犠牲者に祈りをささげている。 (古川峻)

日航ジャンボ機墜落事故で犠牲となった山城榮賢さんの冥福を祈る遺族ら2011年、8月12日群馬県