「白紙」にした新聞 責任の取り方、無言で問う<おきなわ巡考記>


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 責任を取る気はないのに、「責任は私にある」と詭弁(きべん)を弄(ろう)する。為政者のそんな常とう句につながる記事を、編集責任者が進退をかけて「白紙」にした新聞が76年前の8月に存在した。

 半藤一利さんと保阪正康さんの対談集「そして、メディアは日本を戦争に導いた」(2013年)で半藤さんは、新聞の戦争責任に関連して次のように発言している。半藤さんは「日本のいちばん長い日」などを著し今年1月亡くなった。

 「責任を持っている新聞社が皆無だと思って調べたら、あったんですね。毎日新聞の西部本社版です。表にはポツダム宣言受諾が載っていて、裏は白紙なんです」

 「他の新聞はどこも、裏に『明日から民主主義』と書いた。実に恥知らずな変わり身の早さです。でも、1紙だけ違っていたんですよ」

 「これまでさんざん戦争に協力してきて、その同じ筆で全く違うことなど書けないということだったんです。これが本当のジャーナリズムですよ。筆に対する良心というか誠実さというか、責任を持つという姿勢が現れている」

 当時の毎日新聞は東京、大阪、西部の3本社制で、九州をエリアとする西部本社版はポツダム宣言受諾を告げた「玉音放送」の翌日、8月16日の2面から全ての記事を外した。一部を白紙にした紙面は20日まで続く。その理由を「掲載無用と信じるものは掲載を見合わせております」(18日の「お断り」)とした。白紙には、強い意思があったのだ。

 半藤さんの発言を裏付けるような、編集トップの言葉が残っている。「昨日まで鬼畜米英を叫び続け、焦土決戦を叫び続けた紙面を同じ編集者の手によって180度大転換するような器用なまねは、とうてい良心が許さなかった」。辞表も提出。廃刊を進言した。辞表は受理されたが、進言は受け入れられなかった(2015年8月15日付毎日新聞朝刊「戦後70年特集」)。

 同じ敗戦国のドイツやイタリアでは、戦争に協力した新聞は廃刊になった。日本本土でそうならなかったのは、連合国総司令部(GHQ)が国民とメディアを軍の統制から解放するという図式を描いたためだ。さらに、1945年8月17日から54日間だけ首相だった皇族の東久邇宮稔彦が「承詔必謹」(天皇の言葉を謹んで聴くこと)を説き、国民全員に責任があるとする「一億総懺悔(ざんげ)」を打ち出して戦争責任を曖昧(あいまい)にしたことも遠因となった。

 沖縄では事情が違った。唯一の新聞だった沖縄新報は戦闘激化で壕での発行が不能となり5月末、廃刊した。組織的戦闘が終結した後の7月、米軍管理下の収容所で再出発した新聞(週刊)が現在の琉球新報となる。「終戦の日」の8月15日にも発行しているが、新聞が戦争に協力したことへの自責の言葉はない。

 この時期の沖縄は、生き残った人々がどうやって生き延びるかに懸命で、新聞も行方不明者の安否や衛生状況など切迫した情報の掲載を優先した。責任の自覚と追及は後回しになった。

 ただ、未曽有の犠牲を払った沖縄戦を「鉄の暴風」の出版(沖縄タイムス)や「沖縄戦新聞」の特集展開(琉球新報)など住民の視線で捉える報道を長年にわたって続ける中で、戦後沖縄のジャーナリズムは新聞人の戦争責任を引き受けた。「戦のためにペンはとらない」姿勢を言明し、堅持している。

 責任は、「自分ごと」として役割を果たすことで意味を持つ。この国の首相にとって、核兵器廃絶についてのメッセージを読み飛ばすほどに平和は「他人ごと」だ。五輪下でのコロナウイルス感染拡大にも責任を明らかにしない。心の乏しい無責任社会が進む今、責任を明示して真実を書く新聞の役割の重さを改めて思う。そして、あの時代にほんの一瞬だけ、新聞人の悔恨と責任感が垣間見えた「白紙の新聞」に目を凝らす。

 (藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)