自国中心の五輪報道 「多様性」にはほど遠い<乗松聡子の眼>


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 7月23日、東京オリンピック開会式では歌手が「多様性」を象徴する虹色の衣装で現れ「おお」と思った。しかしその歌手の口から出てきたのは、「多様性」とは最もかけ離れた存在である天皇制を賛美する「君が代」であった。振り返るに、これは予兆だったのかもしれない。

 スポーツ報道はどこの国でもナショナリズムに偏りがちだが、今回の日本の報道にはホスト国としての気遣いなど感じられない異常な自国中心主義があった。

 「日本人選手の活躍」にしか関心がなく、他国の選手で誰が活躍しているのかが全く分からない。スケートボードでは英国の選手なのに片親が日本人であるからといって追い掛けたかと思えば、日本で生まれ育ち、差別を乗りこえて韓国代表としてメダルを取った柔道選手のことは気にも掛けない。

 日本選手が大技を決めればキャスターは我を忘れ「素晴らしい!」と叫び、海外のライバル選手だったら「恐ろしい」と言う。柔道団体で日本が負けそうになっているとき相手のフランス選手が腕を押さえて顔をしかめていたら解説者が「痛そうにアピールしてますね」と言っていた。

 日本選手が同じ様子だったら言っていなかったであろう、心ない言葉だ。フェンシングの中継では、マスクをかぶっている選手の顔が分かるように日本選手の顔写真を画面に出していたが、相手国側はなかった。

 この時はさすがに背筋が凍った。海外選手は日本選手の活躍の道具(または障壁)でしかないのだ。これは戦争の構造だと思った。戦争では相手に顔も名前も家族もない、人間以下の存在と思い込むことで人を殺せるようになる。

 BLM(ブラック・ライブズ・マター)という言葉がある。差別され殺され続ける米国の黒人の人たちによる「ブラックの命にも価値がある」という叫びである。「多様性」を掲げた日本のオリンピックは何をしたかったのか。私の眼には、多様性どころか、OJLM(オンリー・ジャパニーズ・ライブズ・マター)、つまり「日本人の命にしか価値はない」という祭典にしか見えなかった。

 大会終了1週間後の8月15日に開催された「全国戦没者追悼式」も、「OJLMオリンピック」のバトンを受け取るかのごとくであった。毎度のことながら、首相は「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われ」と言い、日本の戦争と支配の下で命を奪われたアジア太平洋全域の2千万人と言われる人々に思いをはせる気はないようだ。いくら天皇が「深い反省」と言っても、「国民」しか念頭にない追悼式では一体何に「反省」しているのかと思う。

 追悼式会場の外、具志堅隆松さんは沖縄戦の記憶を背負い、辺野古埋め立て反対の座り込みをしていた。日本政府は沖縄戦の戦没者を「海外戦没者」と見なしているが、「皇土」を守るために見殺しにされた沖縄住民も、「日本人以外の命には価値がない」という価値観の被害者であった。入管収容所で死なされたウィシュマ・サンダマリさんもそうだ。

 このようなメンタリティーが再び人を殺さないように、戦争を起こさないように、日本は真剣に変わらないといけない。「多様性」の虹色アピールで何かやったような気になっている場合ではない。

(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)