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病と渡米…培ったコーチ哲学 電撃復帰・キングス桶谷HCのバスケ人生<ブレークスルー>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
球団2度目のbjリーグ優勝を達成し、選手に胴上げされる桶谷大HC=2012年5月、東京の有明コロシアム

 プロバスケットボールBリーグ1部の琉球ゴールデンキングスのヘッドコーチ(HC)に9年ぶりに電撃復帰した桶谷大氏(43)。球団創設2季目の2008―09シーズンに指揮官に就任し、前季最下位だったチームをいきなりbjリーグの頂点に導いた。キングスを象徴する堅守やハードワークを植え付け「球団の礎を築いた」と評される。行く先々で結果を残してきた敏腕コーチのバスケ人生とは―。

■病を越えた情熱

 京都府出身。父・良さんは府内の古豪で知られる山城高で監督を務めた名指導者だった。そのため、幼少期は「バスケットボールがおもちゃだった」。中学でバスケ部に入部した。

 しかし1年の夏、腎臓に病を発症する。完治が難しく、高校まで入退院を繰り返す日々。満足がいくまでプレーを突き詰められず「悶々(もんもん)としていた」。そんな中、幼なじみが全国を舞台に活躍し、世代別代表にも選ばれていた。刺激を受け、決意を固めた。「早く指導者になって、彼らが引退後に指導者になった時に自分が上に立っていたい」。脳裏にはコートで采配を振るう父の姿もあった。病に負けないバスケへの情熱が自身を新たな道へと導いていく。

■飛び入りで帯同

アリゾナ州立大でマネジャーを務めていた頃の桶谷大HC=1998年、米国(本人提供)

 高校を卒業後、本場で指導法を学ぶために単身渡米。米プロNBA選手を多く輩出してきたアリゾナ州立大へ。語学学校に通いながら、チームに関わる方法を模索した。向かったのは大学の多目的施設。後にNBAで優勝を経験する現役生のエディー・ハウスという選手がシュート練習をしていた。毎日リバウンドを拾って練習を手伝い、心の距離を縮めた。ある日、「明日からチーム練習が始まるから体育館に来なよ」と誘われた。飛び入り参加にもかかわらず、ハウスの仲介で晴れてチームマネジャーになった。

 計6年間チームに帯同した。個人能力の高さが際立つ米国のバスケは「思っていた以上にオフェンスもディフェンスも規律が厳しかった」。強さを支える戦術のきめ細かさを学んだ。守備を重視するHCの方針は、「得点が1点なら相手をゼロに抑えて勝てばいい」という信念を持っていた父にも通じるものがあり、その後の自身のコーチ哲学を築く礎となった。

■沖縄に魅了され

 卒業を前に、国内のプロや実業団チームに「コーチを務めたい」と片っ端からメールを送り、05年にbjリーグ大分のアシスタントコーチ(AC)に就任した。キングスとの出合いはその2年後。07年11月3日、大分のHCとして乗り込んだ沖縄コンベンションセンター。キングスにとって、球団創設から初のbjリーグ公式戦という歴史的な一戦だった。迫力のプレーに自然と会場が沸き、指笛が鳴り響く。「本当にバスケを楽しむ場所ってあったんや」。それまで国内で感じたことのなかったバスケ熱に魅了された。

 翌08年、30歳の節目にキングスHCに就任すると12年までの4季で優勝2回、準優勝1回、3位1回という好成績を収めた。

 計15年のHC歴を積み上げてきた桶谷氏は、自身の変化を「柔らかくなった」と分析する。組織力を重視しながらも「以前は自分の考えを押し付けていたが、今は選手の将来を考えながら柔軟にチームをつくっている」と個性も尊重し、指導者として進化を続けている。

 丸刈り頭でひげを蓄え、大声で指示を出す姿は迫力満点。一方で、コートの外では笑顔を絶やさず紳士的で「おけさん」と呼ばれ親しまれる。キングスのBリーグ初制覇へ。その人柄と実績でチームと沖縄のファンに愛された指揮官が、再びキングスの歴史を切り開く。

(長嶺真輝)