先の大戦で沖縄は、文字通り破壊し尽くされた。空爆と艦砲射撃は容赦なく、命と家と畑を奪った。それでもウチナーンチュは未来のために生き延びた。と語る民謡歌手がいる。外間千代子だ。自らの家族を含め周りの身近な大切な多くの命を奪った、あの戦。何とか生き抜いてきた人生のそばにはいつも音楽があった。そう、ウチナーンチュはあの時代にあっても、自らの生活を歌い「肝慰み」とした。それが、民謡の歌の力だと強調する。
小浜 出身は?
外間 1937年、勝連南風原(かっちんふぇーばる)出身。野村流古典音楽で名をはせた玉栄昌治(1920~2007)は兄(長男)で、9人兄弟の私は六女で末っ子。
小浜 大変な戦争体験をした。
外間 今思い出しても恐怖と悲しみで体が震えます。姉(長女、次女、三女)は南洋に出稼ぎに行って長女、三女は向こうの戦争で亡くなったんです。次女は長女の子供たちを連れて戦後帰ってきたんです。
恐怖の避難生活
小学校時代は防空壕の穴掘りばかりだったという。千代子は家族で避難しようと先祖の墓に行ったらいっぱいで入れなかった。すぐ側の大きな岩の下に穴を掘って防空避難所とした。昼間はじっとして、夜になると家に帰り、灯が漏れないようにご飯を炊いて食べた。朝は空から爆弾が早い時間に降ってくる、恐怖の避難生活。
小浜 ヤンバル疎開はしなかった?
外間 しません。後に資料を見て4月3日と分かったのですが、防空壕の入り口をトントンと石でたたくような音がして父が表に出ると同時に撃たれた。後ろに居た姉も。声も出せずに、傷口を押さえて苦しむ父と姉を見て、アメリカに殺されるより家族で死のう、と兄が言った。それでも母は「兵隊に行っている長男が苦しむから、子供たちを預けてきて戻ってくる」と動けない父と姉を残して大家(うふやー)を目指した。その時「私も行きたい」と負傷した姉の声が今でも聞こえてくる。これが父と姉との最後の別れでした。
父と姉の行方
それから、アメリカ兵が来て、戦争が終わったから家に帰りなさいと言われて、千代子と母は、すぐに父と姉のいる防空壕へと向かった。入り口は爆弾でつぶされていて、二人は野戦病院に連れて行かれたとのこと。その日から母娘は父と姉の行方を探ったが、ついに見つからなかった。戦後になっても幾つもの収容所跡を訪ねては名簿を一つ一つ見たが、ついにその名を見つけることはできなかった。
小浜 収容所には行かなかった?
外間 いいや、家には那覇のおばさんの家族が入ってみんなで重なるように生活して、何食べたかも覚えていない。
千代子は言う、雨が降るとカタツムリを捕まえてお汁にしたが、食べきれなかった。海に食べ物を探しに行ったら、死体だらけで、自分の畑で芽芋をとっていたら警察に捕まったりと、どのように暮らしたかもよく覚えてない。配給所というところからアメリカが運んできた缶詰などを食べられるようになったのもかすかな記憶でしかなかった。
小浜 それから学校に?
外間 私は小さい頃から音楽が好きで、先生にかわいがられた。クラシック系が好きで高校の文化祭では独唱させられた。またのど自慢大会にも出て賞品を頂いたりした。
歌への覚悟
千代子が民謡に興味を抱いたのは、何とか暮らせるようになった頃。親子ラジオから流れる三絃(さんしん)の音にみんながしがみつくように聴いている光景を見て「民謡っていいものなんだね」と思い始めたという。
小浜 民謡を始めたきっかけは?
外間 高校卒業して、観光バスガイドになりたくて応募したら合格した。青バスのガイドで各地を案内して回ると民謡を歌わなければならない。運転手と一緒に門をたたいたのが嘉手苅林昌先生のところ。
小浜 嘉手苅林昌さんの弟子?
外間 はい。嘉手苅さんと喜納昌永さんはすごい人気でした。テレビも無い時代。あの頃、公民館の新築ラッシュで、今日はどこで余興、明日はどこ、と一緒についていった。
青バスとは現在の琉球バス交通の前身の前身。「琉球バスは1964年8月、昭和バスと青バスが合併して設立された」(「沖縄大百科事典」)。青バスで観光ガイドをしながら、嘉手苅林昌に入門し、昼休みを利用して真境名由康の琉舞道場に通い、洋裁も習った。喜納昌永さんに呼ばれて民謡ショーにも出演。テレビがお茶の間に登場してくるとテレビの民謡番組にも喜納さんと出演した。当時を振り返って、千代子は「私あまりにも欲張りすぎでした」と笑った。
小浜 忙しすぎた?
外間 はい、肋膜炎にかかってしまって即入院です。それでバスガイドも辞めて再出発しようと引っ越したら、小浜守栄さんの家が近所で、声をかけられて「コザ小唄」「四季の唄」などのレコーディングしたんです。また忙しくなって、歌しかないと覚悟した。
小浜 小浜さんや嘉手苅さん、喜納さんの歌の魅力は?
外間 生活の中から生まれる本当の、本物の歌。土のにおいのする民謡。時代を歌い、次のステップに進もうと歌に向き合う姿です。
(小浜司・島唄解説人)
奇跡のオリジナル曲
仲間川ぬ船遊び
作詞:嘉手苅林昌
作曲:外間千代子
一、船走(ふには)らちいそさ 仲間川(なかまがわ)ぬちなじ
四方(ゆむ)に眺(なが)みゆる 緑美(みどぅりちゅ)らさ
アネ勝(まさ)て 見事(みぐとぅ)
二、仲間川ぬ水(みじ)や 潮行逢(うすいちゃ)てぃ戻(むどぅ)る
我(わ)んやスオー樹(き) 観(ん)ちぬ戻(むどぅ)い
アネ観んちぬ 戻い
~3番を省略~
四、マルマボンサン古見浦(くんぬうら)
上原(ういばる)ぬでんさ 崎山(さきやま)ぬ
唄(うた)に 情(なさき)くみてぃ
アネ情くみてぃ
五、西表島(いりおもてじま)に何(ぬ)し情(なさき) さびが
歌詠(うたゆ)まい残(ぬく)ち 情(なさき)さびら
アネ情けさびら
六、西表島ぬ 山(やま)なみぬ美(ちゅ)らさ
島(しま)ぬ人々(ひとぅびとぅ)ぬ 情深(なさきふ)かさ
~~アネ情深かさ~~
外間千代子のオリジナル曲「ふり向けば あの日」は、沖縄戦に従事した学徒隊をテーマにした歌である。多くの命が消えたあの日の、悲しい思いを自らの体験に重ねて歌に託した。CDアルバムのタイトル曲にもなっている。このCDには、もう一つの奇跡ともいえるオリジナル曲が収録されている。嘉手苅林昌作詞「仲間川の船遊び」(作曲・歌/外間千代子)だ。
1989年9月、千代子は自身の経営した民謡クラブ「はんたばる」(うるま市安慶名)の主催にて西表島公演ツアーを敢行した。特別ゲストの嘉手苅林昌は公演後、仲間川の観光ツアーに、無理やり手を引かれて参加させられた。仲間川の自然は素晴らしかった。途中、カンムリワシを見たり、サキシマスオウの木の大きさにびっくりしたり。
よほど楽しかったであろう、嘉手苅は宿に戻ると白い紙を彼女に渡した。見ると詩がびっしり書かれていた。「これ頂いていいんですか」といって曲を付けたのが「仲間川の船遊び」。「この人の頭の中は四六時中民謡のこと」と千代子はしきりに感心した。