written by 普久原 均
菅義偉首相が突然、自民党総裁選に出馬しないと発表した。急な展開に驚いたが、世論の支持の度合いを考えると納得もいく。思えば二転三転、朝令暮改を繰り返した首相だった。
その菅氏とは3回お会いしたことがある。会ったというより、接近したと言うべきか。最初は17年ほど前、東京支社勤務のころだ。赤坂あたりのホテルの会議室だったと記憶する。そのころ下地幹郎衆院議員が落選中で、その下地氏を励ます集いがあり、下地氏と親しい自民党議員が顔を出していた。
取材に来た私はこの機会に知己を得ようと何人かの国会議員らと名刺を交わした。その中の一人が菅氏だったのである。たしか壁際のいすに座っていた。まだ世にそれほど知られておらず、私も「たたき上げの国会議員」とうっすら聞いている程度だった。正直あまり鮮明な記憶がない。あいさつしたが、「どうも」程度の返答だった気がする。
2回目は安倍政権が発足し、菅氏が官房長官になって来県した時だ。県内マスコミ巡りの一環として琉球新報を訪れ、当時の富田詢一社長と面会した際、私も応接室の壁際に立っていた。その年の4月28日に予定する主権回復の日の式典について、その日に本土から切り離された沖縄を「里子」にたとえた富田社長が「子どもを里子に出した日を政府は祝うのか」とただしたのに対し、菅氏は「沖縄復帰の節目には政府と県の合同で記念式典をしている」と答えた。今にして思えば、質問に正面から答えない態度は当時から一貫していたと妙に感心する。
3回目は大手通信社のビル内だった。年1回、全国の地方紙の編集局長が集まる会議に、「辣腕(らつわん)の官房長官」として鳴らす菅氏がゲストスピーカーとして招かれたのである。
講演内容は覚えていないが、終盤の記憶は鮮明だ。
「最後に質問の時間を設けます」。司会者がそう告げた。さっそく手を挙げた私が指名され、マイクが回ってきた。大意つぎのような質問をした。
「辺野古新基地建設の是非をめぐり、沖縄ではすべての衆院小選挙区で新基地反対を掲げる候補が当選しました(当時)。知事選でも、参院選挙でもそうです。あらゆる民主主義的手続きの機会に、沖縄は反対の民意を明確に示しています。それなのに政府は新基地建設を強行しました。沖縄には民主主義を適用しないということですか。これでも日本は民主主義の国と言えますか」
菅氏は何やら話した後、「沖縄の負担軽減のために努力する」と述べた。質問の意味をわざとずらして答える、あのいつもの官房長官会見と同様だった。SPに守られて会場を後にする菅氏の姿は、妙に小さく見えた。
会議後の懇親会で何人かの編集局長から「普久原さん、あの質問はよかったよ」と声をかけられたが、正直、私はもやもやしていた。もっと質問を重ねればよかったと後悔が長く残った。
官房長官時代、菅氏は「ガースー最強」「鉄壁」などと称され、「官邸の守護神」とすら呼ばれた。だが、そんな称号に値するだろうか。質問に正面から答えない不誠実な態度を続けただけではないか。
取調室で刑事の尋問をかわす容疑者の態度としては効果的だろう。だが政治家として多くの人の不安や疑問に真正面から向き合い、国民全体とコミュニケーションを取ることが必要な首相としては、決定的に不向きだった。そんな姿を官房長官当時、「最強」などと称賛した一部の評価の方にむしろ疑問がわく。
形勢不利とみるや対抗馬の政策をコピーして党役員人事をしようとし、挙げ句、役員の成り手がいなかったのだとか。政権終盤の姿はそぞろ哀れをもよおすが、安易に同情してはなるまい。表舞台での質問ははぐらかす一方、裏では人事権を振りかざして官僚はおろか、学術会議のメンバーまで屈服させようと恐怖政治を敷いたこと。そして何より、沖縄の民意を一顧だにしなかった強権ぶりだけは忘れないでいたい。
普久原 均(ふくはら・ひとし) 旧コザ市(現沖縄市)出身。早大卒。1988年入社。政経部、社会部、東京支社、経済部長、編集局長などを経て19年取締役営業局長。13年、統括デスクを務めた琉球新報・山陰中央新報合同企画「環りの海」で新聞協会賞。趣味は映画、食べ物屋めぐり。共著に「島嶼経済とコモンズ」(晃洋書房)、「戦争の教室」(月曜社)。
沖縄発・記者コラム 取材で出会った人との忘れられない体験、記事にならなかった出来事、今だから話せる裏話やニュースの深層……。沖縄に生き、沖縄の肉声に迫る記者たちがじっくりと書くコラム。日々のニュースでは伝えきれない「時代の手触り」を発信します。